ふるさと栄会

わが郷土の歴史(6/7)

柴田秋太郎プロフィール

ページ1外ノ目村(地名の由来) / 観音堂・・外目村
ページ2大谷館(大屋館) / 大屋新町村 / 栄神社
ページ3吉詳山両学寺、神原家 / 新田山光徳寺真宗大谷派 / 大屋寺内村
ページ4正伝寺・・大屋新町村鬼嵐 / 弥左エ門のこと
ページ5新藤柳田村 / 鵈鳩(みさご)、みさこ地蔵
ページ6: 赤谷地 / 八王寺 / 馬場(安田原)
ページ7婦気 大堤 / 楢沢

「赤谷地」

赤谷地はそれでも地名辞典にはある、それぞれ地名の由来を記して参考に供したい。

「法竜」ある記録によれば古来大屋には寺が多く、したがって寺に因んだ地名が多いとされてきた。「法竜」「佛ヶ沢」もその例外ではないと言われていた、ところが地名辞典にこう記録されている。「法竜」地名は竜神信仰からきたもので、田んぼに水が必要であるから、竜神は雨族と水族をつかさどる神で雨乞いをして竜神様にも祈った。堤→法竜→溜池→雨池である。法竜は横手市大屋新町、十文字町にある。

「佛ヶ沢」字源から解釈するともし佛語の梵志(ぼんじ)からきたことばだとすれば、梵志は虚無僧のことで、虚無僧がお寺からもらっていた屋敷のことだろうが、各家を修業ごいをしていた身分だからお寺からそんなに一つの沢をもらうわけはない、佛ヶ沢はカブトキクをブシというので、この植物の景観からの語源であろう。トリカブトともいう。有毒草木で毒キノコもブシキノコとも言う。葉は掌状に分裂し、秋は美しい紫色の花を開く塊根は猛毒なのでツボでこれを製して、動物も取ったが、鎮痛薬にもした。ブシの野生が佛ヶ沢の地名になったと思われる。雄勝郡石塚、川向、三関、横手市栄中里等にある。 「平林」この地名もよくあるが、語源は雑木林に限った訳ではないが比較的平地の多い林という意、そしてそのまま地名になったのであろう。

「牛首戸」牛首(うとび)は鏡味氏の地名辞典によれば①山稜の意につく地名、(美の牛、牛神、牛縊、牛首)の地名があり②牛の衆形語につく地名は(牛山、牛沼、牛ヶ沢)③牛首は牛首状の狭長な尾根を示した地形に地名となる。④アイヌ語であれば何々がそこに群生するところの意で北海道のノッケ牛、モヤ牛、などとある。大屋寺内の山地にある牛首戸は土地の人はウサクビと称している。中世末期の小野寺義道の時世までの死罪を行ったところだという、山館(大谷館)に居城した小野寺の家臣日野備中守は大屋三部落の最高権力者として刑を執行したと想像できる、当時の名主階級は運搬用の牛馬を所有したから人骨を牛の骨と呼称させて近世の人たちは実際生活の交渉を山に求めた、いまは山菜採りの適地のウサクビもその昔を知る人はない。③が該当する地名の起因と思う。

前述のように「赤谷地」は通称であるが地名辞典にあるのを記しておく。横手市に赤谷地がある、湿地は徳川初期時代は農地としても不適地が多かったが、人口壓により次第に開墾の対象となった。「ヤツ」と呼び東北では「ヤチ」東九州と関東では「ニタ」「ヌタ」「ムタ」愛知県ではクテなどと呼ぶ低地を意味する語に、フケ、フゴ、クゴ、アワラドブ、クボなどあり、久保ノ目はクボ地を意味するが必ずしも湿地とは限らない。谷地は横手盆地のような沖積平野には多くあり東北地方には同意語として谷内、八知、八道、クボ地、矢地、矢次、矢治、野治、屋治、養治となっている。この赤谷地も沼沢地の谷地に大屋の里からの流水により、湿地となっている。山層掘れば赤い鉄分をふくんだ土が出るので赤谷地といったのではなく、鉄分をふくんだ赤褐色の渋水が多く、垢水が油ずんでいるので垢谷地とするのが正しい。赤坂も赤川も同様の語源を持つ地名である。これだけはっきりしている地名でありながら古籍上になく通称であり、牛首戸、平林、法竜、佛ヶ沢、街道下の五地区が赤谷地一区、二区として百戸以上の戸数を形成隣保組織している。戦前までの街道は起伏が多く、その最たるものは山本果樹園のところで、中の坂と言った。いまでは考えられない程の坂道であった。それが昭和三十年代に拡幅改良工事が進み現在の状態と相成った次第である。

道路が良くなると両側に建物が連立し戦前の面影はない。上八王寺の日貿産業国鉄アパートのあるところ、以前は「石切山」と言って、石材が切り出されていた、「堤石(つつみいし)」とも言い、「堂山石(どやまいし)」とも言った。記録によれば藩政時代から切り出されていたようである。戦後も十二人の石工が登録していて、安田部落へ入会料を収めていたという。いまは住宅団地となって石切山の面影はない。

「八王寺」

横手市八王寺、東京都の八王子と似た八王寺で、その上お寺と関係がありそうだ。横手駅を発車して約五分、右方に渓流の見える岩場の低い分離丘がその八王寺の名の根源という。ここは大屋から流れくる水流が自然のままに集中してくるところで、今だに稲作もよくない。そして森林の茂っていた頃は陰地であったろう、オウシ゛はオンチの転語で、陰地、日陰か湿地を意味する。このように凹地や邑地から王寺の字が当てられたのか、横手市に市営住宅が数ヶ所あるが、ここ八王寺の市営住宅が一番発展したのは交通便利に原因する。

街道西側はほとんど開発され住宅が建ち、都市化している。東側の街道沿いに二,三ヘクタールの果樹園がある。山本政治氏が一線から退き二人の子息によって経営されている、山本氏はもともと平林に住んでおったが支那事変に出征して昭和十四年帰還した、その時前の経営者照井氏から譲り受けこの地に移り住み現在に至ったものという。山本氏は果樹の先覚者でもあり研究熱心にかえ、不断の努力が実り数々の賞に輝いていることは言うまでもない。また昭和三十六年十月第十六回、国体、「秋田国体」で湯沢会場から横手会場への途中山本果樹園へ当時の両陛下がお立ち寄りになられるという光栄に浴したことである。筆者が後日訪ねて感想をきいたことがある、「お言葉を賜ったが感激で胸がいっぱいだった」と述懐していた。果樹園の入口には横手市文化財保護協会で建てた「今上陛下御入園之地」と記された標識がある。

山本果樹園の北はずれに大台入口の標識が建っている、街道から二百Mも入った奥まったところに高橋長之助が親郷の安田からこの地へ移住したのが昭和三十六年頃のことだという、四、五年も家を建てる人もなく街道からの道路も狭くそれに悪路で秋の取り入れの時などは苦労の連続であつたという。しかし農地を耕地整理の際に奥羽線東に配分を受けたり、また交換したりしたため後戻りはできない、そうした事情が努力となって実ったことであろう、今では十八戸もあるという静かな小別荘地のたたずまいである。

私が訪ねたのは五月の中頃であった、澄みきった空、新緑の木々の若葉が四囲(あたり)を包み清水が池に流れ込んでいるその音が小さなせせらぎに聞こえる。中では真っ赤な金魚が生々と泳ぎ回っていた。鳥のさえずり以外何者もない静かな別荘地である、高長さん、此の処はいいなあ、長生きするなあ、と言うと額に深いしわをひとすじふたすじ刻み、笑って見せた顔が印象的であった。大台の北側に「安田館」がある、土地の人は館平(たてっぴら)とよぶ、○此の館はいかなる人の居館とも伝えあらねど、按(かも)るに、関根村の伊藤与五右エ門が十代先には安田邑に居住よしをいへり。与五右エ門が上祖は滝口の次官藤原の季武にして、後三年の戦いの時は将軍義家朝臣に大豆を貢にせし家なるよし、その館なんどに住たらんものか、馬場の跡ありき。「雪の出羽路」

館平の下はブンナ沢である。

菅江真澄は雪の出羽路、安田邑、○田地字の頃に鉤栗沢と書いている、どう考えてもあてはまらない、地名辞典に出てくるのは仙北郡にぶんな沢古銅山が一つだけであとは出てこない。「広辞苑」によると「ブナ」撫、掬、山毛欅、ブナ科の落葉高木とある、近在ではあまり見ることのない樹木であるが、神社やお寺では大木を見かけることがある、それは昔から無事無難(ブナ)を祈願して植えたものだという。ブンナ沢はブナ沢がブンナに訛ったものだろう。ところで松原になるか、ブンナ沢になるか詳らないが山神神社のところにブナの大木がある、これが地名と何らかの関係があるものと推察出来る。いずれにせよ撫(ブナ)の木に由来する地名であることには間違いないと思う。大台の北東側横手共選までブンナ沢は急斜面を除きほとんど住宅が建ち過密状態となった。西側大台入り口から柴田商店までのあたりが柳堤で八王寺旧市営住宅入り口に柳沼がある、大堤の田久保沼で天然氷を採取していた頃この沼でも採取していた。いまから半世紀以上も前のことである。横手市では年次計画で八王寺公園を造成することになり二,三年前から着手した、柳沼の堤防を舗装し街道から直接入り口を取り付け遊歩道として公園への通路とした、その通路を上ると「横手殉教徒之碑」と「埋め塚」へ出る、この「埋め塚」については諸説があるが次のような記録があるので参考に供するため記したい。

○天明(一七八一?一七八八)の飢饉の死者、天保己年(一八三三)の飢饉に共倒れした者を埋めた処とも、また、それより昔、横手城に城代をしていた三美濃の一人と称された傑物須田美濃守守秀の時代、寛永元年(一六二四)仙台から来た切支丹宗徒巌中という者の門弟で布教に活躍していた稲村源兵衛という者を城中に呼ばせたところ逐電した。初代の城代伊達参河守盛重の子伊達左門宣宗は三の丸今の上野台の屋敷にあったが宣秀は左門に左門の知行所である今泉村(金沢西根の今泉か、植田の今泉か不明)に還俗して七左エ門と称していた巌中を呼ばせた、左門は邸内で巌中を取り押さえたが、門徒の襲撃に遭い奪い取られ、その上に家從が殺傷された根岸の武士が駆け付けて門徒を討ち取ったが、根岸の武士にも傷を負った者があった、こんなことから門徒が城下に集まり数十人となり、不穏な状態になったので、横手の武士達はこれと戦って悉く召し捕り、城外の安田原で磔刑、あるいは斬罪にした。磔刑の柱八〇本、打ち首数数十人というが、場所が安田山とあり埋め塚は切支丹の者か、飢饉の者かは判然としないがいままでに白骨の出土したといわれていたのがこの埋め塚であるという。その昔死人を埋めた所へ植えたという説と、実生のものであるとの二説がある松の大木が二本あったが、何れも戦後枯れてしまったと土地の古老はいう。その後地蔵尊を祀る祠堂を建立し供養していたが、八王寺公園造成のため祠堂は移転していまはない。「埋め塚跡」という標識が一本建っているのみで近辺は以前の面影はない。横手市の教育委員会で埋め塚を発掘調査した結果何も出土しなかったとのことであった。

祠堂はもともと馬場か親郷安田へ行く奥羽線踏切端にあったものであり、それも踏切事故多発地帯であるために安全祈願の地蔵尊を建立したものでそれが戦後埋め塚へ移転し、此の度八王寺公園造成のあおりを受けた形で八王寺から堂山へ抜ける奥羽線踏切手前の基地の所に移転し鎮座していた。何事三度目安住の地となることを祈りたい。「埋め塚跡」の東、小高いところにキリスト教の「横手殉教徒之碑」が建っている。以前はその近所に墓地もあったが移転して現在はない。碑陰に殉教者名が刻まれているが、横手地方はない。一六二四、八一六、仙北郡千畑村善知鳥、斬首、十三人。一六二四、九一八、平鹿郡薄井、(舘合)斬首、四人。秋田殉教者、一六二四、七,一八、秋田久保田火刑、三二人。一六二四、七,七二、六。院内の信者久保田で斬首二五人、秋田の信者斬首一六二四、八,四,寺沢(横堀)の信者二四人。牢死二人。「寛永の昔われらの郷土で多数の教徒が尊い鮮血を注がれた、実に「致命人の血は奉教人の種なり」と、横手カトリック教会献堂三十周年に当たり、かかる由来を顕彰のためビールブッセ神父の代に信者一同これを建てた、一九六九年八月一五日。」ヨハネ斉藤實徳書刻銘、キリスト教徒横手殉教者の霊をまつる碑文としてあたりを木々に囲まれて建っている。

なほ年次計画とはいえ八王寺公園の完成が待たれる所である。さて、柳沼から馬場へ出てみる、馬場の地名は県内で七ヶ所もある。意味は①がけ、②馬の調練所、③広場、④山上の平担地の意、馬の調練所が必ずしも馬場とは限らない。川原の広場であるために、馬の調練所にしてもよいという意味である。横手市の馬場崎は城下町時代から馬の調練所であった此の所安田にある馬場は広場の意味らしい。近くに館平があつて馬の調練所と関係があるらしい。砂原の土質にこの名前がつき近世までの武士とは無関係である。

「馬場」(安田原)

後述になったが、平和街道(国道107号線)が市内へ入る大沢踏切(北上線)の手前から平鹿町?本荘方向をバイパスで結ぶことになり、羽州街道(国道十三号線)を横断するため、ブンナ沢?柳堤の一部が分断されて安田原交差点となった。(昭和四十三年供用開始)馬場は、元来、安田原の愛称で親しまれ、現在も安田原であり将来に亘っても通称安田原であろう。馬場はもともと原っぱ(広場)であったもので、親郷が安田であるところから安田原と呼称するようになったものであろう。それに羽州街道の開削(元和二年、一六一六)に依り、ほうぼうから人が集まり家が建つようになる。太田利兵エ(現当主、利兵衛氏)高橋八右衛門(現当主、信氏)その他が新郷安田村から移転して来た。やがて安田原という集落が形成されたものである。戦前に現在の横手共選地内に東北マッチ工場と家畜保険所があった。このマッチ工場で製造されたマッチだが、火をつけようとして擦ると、硫黄臭い煙がでてから、しばらくたって火がつく、というお粗末な品物であったが、それでも戦争中の物資のない時代には貴重なものであった。いまだに想いでの多い方もおられよう。マッチ工場も保険所もいまはない。その跡地に横手果実共選場の外に八万箱の収容能力を完備した冷蔵庫を建設している。この地域から片側が前郷村分であるが安田原で罷り通っていたようである。横手の門前町としての安田原に、たが職(桶屋)下駄屋、駄菓子屋、苗木屋、提灯屋、鍛冶屋などが栄えていたという。また、広場で江戸相撲の興行が行われた記録も残っている、村はずれに清水が湧き出ていた、往来の人々のいこいの場所でもあったという。水道などない時代のこと、朝夕清水から手桶に水を天秤で上手にかついで歩く女の人を見かけたものだと古老は懐かしむ、その清水もいまは形だけを残すのみで往時を偲ぶに過ぎない。馬場は公簿上だけでひっそりと納まり、通称の安田原は前郷村分のバス停標示も安田原であり、馬場側も安田原である。

腰回(安田)横手市安田、同杉目、同塚堀、仙北郡横堀、雄勝町などに、コシマワリ、ツカコシ、コシマキがある。横手市安田の小分離丘には、部落の鎮守の神社がある、この付近を腰回りという。越(こしこえ)は本来峠を表す、峠は地形学では鞍部をさす、この分離丘を使用しその一帯を腰回りというマキは巻の字を用いたり蒔きも見られる、まわりを取り巻くことだ、腰巻きは女性着用の腰巻きでなく腰はふもとや崖を表す。この分離丘の腰部を取り巻く帯も腰巻きといえる。腰回りつまり腰巻きのことだ、安田は①ヤは沼地スは州で②沼地雑木林と解ける。安田と同義の地名に安川、野州、保田、安井など全国に分布開拓当時の安田、上の①、②のどっちもまさった景観であったろう。安田村、江戸期?明治二十二年(一八八九)の村名、出羽国平鹿郡の内秋田藩領、「正保国絵図」には安田新田村二七六石、「元禄七郡絵図」でも安田新田村三三〇石余と図示、その後婦気大堤村を分出し、新田の字をとり安田村として「享保郡邑記」では枝郷樋渡村(天保の飢饉で廃村)を擁して戸数二〇軒、うち(枝郷分三軒)「享保黒印高帳」の村高三三一石余、当高三一七石余(うち本田一七六石、本田並一二三石、新田一八石)山林からの落水を水源とする堤が多く、明和七年の堤数二三ヶ所、(村々堤見分並日記)「寛政村付帳」には親郷横手町の寄郷、当高三〇一石、(うち蔵分一六石、絵分二八五石)と記載、「雪の出羽路」では一二軒、五〇人(肝煎利兵衛)、馬七頭とある。「天保郷帳」は三一七石、天保期項の横手川壱之堰からの水掛高一八七石、「吉沢家文書」村鎮守は馬頭観音社、(別当は大屋新町村修験両学寺)明治十年代に赤坂・婦気大堤・大屋新町・大屋寺内・新藤柳田・外目の六ヶ村と連合組合戸長役場を結成した。同二十二年町村制施行に依り栄村の大字となる、その直前の戸数二三、近代、安田、明治二二年現在の大字名、はじめ栄村、昭和二六年からは横手市の大字となる。「秋田県地名大辞典」

この村に旧家で長左エ門(現主平塚長治氏)家がある。その家に現在も麦が俵に詰められたまま残されている。それは、藩政時代、祖先が幾度か飢饉に遭遇した時の苦しい経験の中で、食糧の如何に大切であるかを痛感し、災害に備える心構えを子々孫々にまで伝えたい一念からの教訓であろう。その教えはいまもあり今日の平塚家をあらしめているといえよう。馬頭観音、鰐口(わにぐち)安田馬頭観音堂蔵。安田堂山馬頭観音堂にある鰐口径(六寸)である。鰐口の表面に「勝軍山不動明王鰐口武運長久子孫繁昌祈所、梵字(カンマン)不動明王寛文七年丁末六月吉日。平本総右衛門橘政次寄進」と刻まれている。馬頭観音へ最初から寄進されたものではなく、廻り廻って寄進になったものであるが、県文化財専門委員奈良修介氏は拓本を見て本県では第二に古い鰐口で徳川前期のものであり、本県では珍しいものであるという。大切に保存したいものである。国道百七号線と十三号線が安田原交差点で合流し、奥羽線をまたぎ、百七号線は婦気、赤坂を経由、平鹿町に抜ける。十三号線は奥羽線をまたぐと間もなく右折、秋田方面へのバイパスとなる。その反対方向、安田地内を縦断して、大堤、新藤、桜沢、外目、醍醐、十文字町、湯沢市を通過し、福島県相馬市を結ぶ準高速高規格道路(横手南道路)計画であるという(平鹿町分まで用地買収済)現在は、東北高速自動車道秋田線の平成三年八月供用開始に併せるべく横手(柳田)インターまで工事中である。

戦後の住宅開発により変貌を遂げた安田地内だが、横手南通路の開削はこれからの安田地内にとって大きな転機となることは間違いないだろう。来るべき二十一世紀に向かって如何にして地域を活性化させて行くかもまた課題であろう。それには住民と行政が一体となって力を合わせてはじめて成し得るものでそのどちらが欠けても成功は有り得ない。


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↑タイトルの画像は?
掲示板に投稿された「議事堂周辺の大屋梅」、投稿記事【22】、の写真を元に加工されたものです。

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