ふるさと栄会

わが郷土の歴史(1/7)

柴田秋太郎プロフィール

ページ1: 外ノ目村(地名の由来) / 観音堂・・外目村
ページ2大谷館(大屋館) / 大屋新町村 / 栄神社
ページ3吉詳山両学寺、神原家 / 新田山光徳寺真宗大谷派 / 大屋寺内村
ページ4正伝寺・・大屋新町村鬼嵐 / 弥左エ門のこと
ページ5新藤柳田村 / 鵈鳩(みさご)、みさこ地蔵
ページ6赤谷地 / 八王寺 / 馬場(安田原)
ページ7婦気 大堤 / 楢沢

「外ノ目村」(地名の由来)

草創は中世末期と考えられる。小野寺氏の支城樋ノ口城の北麓に「内野目」がある。それに対する外野目であり、村東に小高い山があるが楯山と呼称している。「楯」という字体からして城の要的存在であったろう。

城下町から五・六百メートルのところに、五庵沢、五百刈りの字名、屋敷跡が現存している。菅江真澄の雪の出羽路に「五百刈り村同四軒とあり、此の邑今廃れたり」とある。近世、佐竹氏入部後、出羽国、秋田藩領、平鹿郡のうち「正保国絵図」に外目新田村五四九石、「元禄七郡絵図」にも外ノ目新田村六三九石と図示されている。新田村扱いであったが、宝永?享保年間(一七〇四?一七一六)に外目村となった。親郷に醍醐村枝郷に桜沢、五百刈村、金屋村の一部を擁した。

「観音堂」・・・外目村

観音堂村の中央に小高い丘がある。松・杉・雑木に囲まれた観音堂は村の鎮守として静かなたたずまいを見せている。創建時から村東楯山の中山に鎮守していたが、いろいろな事情で明治末頃(一八一〇年)現在地に移築したという。観音堂について古文書が残されているので次に記して見よう。

「羽州平鹿郡外目村中山ニ御立給フ正観音先年之御建立トイエドモ不存(ぞんぜず)御堂破損ニ付、此之別堂、鈴木徳右ェ門并ニ(ならびに)郷寄進デ明暦元年乙末暦(一六五五)御堂弐間、参間、立替テ時ニ元禄十四辛己ノ年迠四十七年ニ到テ御堂破損之間御別当柴田兵右ェ門、一郷寄道ニ而御堂建立ス、大工ハ馬鞍村笹木三左右ェ門エ数三十五エ木梚ハ当所ノ徳右ェ門エ数五十エ、梨木村太兵エ十エ合テ九十五エ也、御本尊ハ此ノ弐十二年前延宝八年庚申之年馬鞍村観行院佛師立当辛己之年、亦頼ンダリト申也・・・」敬白
元禄十四辛己暦(一七〇一) 別当 柴田兵右エ門
              書主   〃
              堀主 圓兵衛

この古文書によれば外ノ目村草創数年後に建立されたもののようである。
   (上記文中エはたくみつまり人数です)

観音信仰にもとづき聖観音を詞り信仰を深め村の将来を安泰ならしめ、繁栄を祈念したに違いない。観音信仰とは、観世音菩薩を信じ尊ぶ信仰、観世音は絶対大慈の仏で、世の中の苦しむ人々を救済するために三十三の姿に変えて願望に応ずるとされ、現世利益の霊験あらたかな仏として信仰を集めた。一般には聖観音、千手観音、十一観音、不空羂索観音、准胝観音、馬頭観音、如意輪観音、以上七観音という。わが国では、奈良、平安の頃から栄え、紀州の国(和歌山)を浄土とし、西国三十三ヶ所を観音の霊場としたが、これは三十三示現の説によるものである。横手山内福満の満徳長者保昌が出家して保昌坊と号し、西国三十三ヶ所を巡礼して観音像を大仏師定長に作らせ、秋田六郡の寺社に納めた。横手御嶽山塩湯彦を一番として巡礼の順序を定めて普及を図ったとされている。これが「秋田六郡三十三観音巡礼記」である。ところが前九年の役、後三年の役などで寺社が焼かれ信仰も衰えたが江戸時代享保年間(一七一六?)に復興し全国的に普及された。外目村も次第に人口が増加し村の形態も整備されてきた頃の出来事である。本尊紛失という重大な事件が起きた。古老の話によると金銅仏で立派なものだったという。それが紛失というより盗難といった方が適当な言葉のようだった。(古老の話)

年代は私の推測では弘化年間(一八四四?四七)頃かと考えられる。現在の御本尊が嘉永三年(一八四八)に作られているからである。

現在の御本尊は高さ五〇センチ位の聖観音座像で右手に蓮の花を持ち、色はところどころ剥がれているが、着色が施されている。御本尊を納めている厨子にしては少々粗末な木箱であるがその表につぎのように書いてある。

「嘉永三天開眼師両学寺永龍代」
「奉再開眼聖観音自在尊仏師横手在住、豊澤軒竹翠」
     庚 戌 九月一七日  竹之助
        右 伊之助
     奉再彩色供養願主施主 儀 助
                   永 吉

建立時の御本尊は彩失して現在のものに変わってから百四十年も経って何等の違和感もなく村の観音様で永遠である。神仏分離令をくぐり抜けた信仰力には村の先覚者達に敬服の外はない。神仏分離令とは(神社から寺院勢力や仏具臭をなくすこと)明治政府の新政策として明治元年(一八六八)大政官布告をもって始まる運動で①権現、菩薩、明神などの改称。②神社内の仏具、境内の鐘楼などの排除。③社僧の復飾(俗人になること)を命じた。神仏習合は奈良朝以来佛教渡来と共に始まっている。佛教を布教するには、日本の神と習合する必要があったし、神道もまた佛教から多くの思想を吸収して佛教主導型で進んだ。神仏混淆と称される。いわゆる本地垂迹説、「本地は仏」、垂迹は「日本の神」の流行である。このため神仏分離運動はなかなか進まなかった。例えは゛明治六年(一八七三)に由利郡で神社の御神体調査に当たった役人が厳しく調べたため、村人は薬師神社の十二神像を隠したり、八幡神社の本尊阿弥陀如来を寺に預かったりした。すなわち、この年六月の状況は「神仏混淆なきよう度々御布達これあり候処、今もって社地内に、仁王、仏塔類をおき路傍に庚申、観音、湯殿山、太平山、鶏卵供養塔、等々種々いわれなき石碑を建立するには、みな御趣意に背き候」とある。また明治九年(一八七六)六月二十二日の布達では「従前講社の先達等、或いは修験の輩へは別けて注意すること」としている。他県では神仏分離運動が激しい破戒活動となり、神仏稀釈(仏教を廃し、釈迦の教えを捨てる)にまで進んだところもあった。神仏分離によって神社の景観は現在の形態となったが人民の神仏習合の意識は消えていない。一般家庭で仏壇の上に神棚を置き毎朝両者を拝しているように、庶民の根底に神仏混淆(仰)が根強くしみこんだ思想だと思う。秋田県では、鹿角市花輪町高屋の観音社が分離令をくぐり抜けた現存している一社だとされている(秋田大百科)が外目観音堂も外目神社として生き残っているのだから不思議でならない。三百数十年もの間、仏であろうと神であろうと先覚者達の詞ったものを大切に守り続けてきた親から子、そして子々孫々まで伝えられて行くであろうことは大事にしたいことであり、また、頼もしい限りである。昭和三十年代に屋根をトタンに吹き替え適時に手を加え行き届いている。二間に三間、入母屋造り、流れ向拝、回廊式、神前に観音堂の横額がある。このあたりにも神仏習合、神仏分離の当時が偲ばれる。

     祭日は九月十七日宵宮、同十八日祭日


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↑タイトルの画像は?
掲示板に投稿された「議事堂周辺の大屋梅」、投稿記事【22】、の写真を元に加工されたものです。

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