ふるさと栄会

わが郷土の歴史(4/7)

柴田秋太郎プロフィール

ページ1外ノ目村(地名の由来) / 観音堂・・外目村
ページ2大谷館(大屋館) / 大屋新町村 / 栄神社
ページ3吉詳山両学寺、神原家 / 新田山光徳寺真宗大谷派 / 大屋寺内村
ページ4: 正伝寺・・大屋新町村鬼嵐 / 弥左エ門のこと
ページ5新藤柳田村 / 鵈鳩(みさご)、みさこ地蔵
ページ6赤谷地 / 八王寺 / 馬場(安田原)
ページ7婦気 大堤 / 楢沢

「正伝寺」・・・大屋新町村鬼嵐

祝融山正伝寺は曹洞派也、この寺の寺号山号は、いにしへ鎮守聖徳太子を神と斎奉りたりし廃寺となりしを再興して祝融山正伝寺とは申也(雪の出羽路)

正伝寺当寺開山は相模国、海蔵寺の三世大洲梵守和尚、天台、真言などの僧侶が住みつる寺の号なんむかし、そを今し世となりて、役氏の別当にて山の号もかはり、寺号も法竜山祝融寺とまをすにこそあらめ。この寺も平僧のみ住みし頃は、大屋の寺内に在りて観音寺とは号つるよし。明暦、万治(一六五五?六一)ころならんか回禄ていにしへの宝物旧記にも伝わらず、ただ元禄年こなたの記録のみ伝われり。応安元年(一六四八)の御検地にも東西百六間、南北四十二間四尺御除地となりぬ。また、骨外秀存和尚の代に法外の事在り、追院の罪をかかふりしゆえ骨外秀存は世代を省きぬ。を勧請也。二世、通庵英哲和尚。三世が骨外秀存和尚であるが、前述の通り法外のことで定かでない。三世、清山本雪和尚。四世、別山木徹和尚。五世、湖山用呑和尚。六世、機安高全和尚。七世、日峯大映和尚。八世、大厳竜泉和尚。九世、日舜義光和尚。十世、一箭智舜和尚。(中興)智舜和尚は、正伝寺の、中興の祖と言われ戒律堅固にして名僧の聞こえ高く、寺隆盛の基礎を作った大和尚と言われる。明和三戌年(一七六六)山門建立、(現存のものは、昭和五十五年豪雪で倒壊したためその年再建したもの)安永五丙申年(一七七六)本堂(現存)を建立した。また、藩主佐竹公の帰依するところとなり、寺領高三十石拝領歴代の追福回向に修され、明治四年制度廃止まで恩恵に浴した。寺村から現在地に引き移って建立された建物は、何かと不便であり、不備であったと思う。それは草創時から火災という難事に遭遇したために試練の時代が永かったからで、当然といえば当然かも知れない。時に名僧、智舜大和尚の出現は壇中(壇徒)にとって信頼と協力を惜しまなかったろう、明暦の災厄以来百十余年かくして曹洞禅寺として堂々の輪郭が成立した。

十一世、天岩運長和尚。十二世、徳翁蜜鄰和尚。十三世、大雄万固和尚。十四世、大達亮禅和尚。十五世、禅栄玄高和尚。禅栄和尚は、仙北郡荒川村(現、協和町荒川)長泉寺に世嗣がなく、このままでは無住か、廃寺になる恐れがあり、宗門を守り立てる意味から転住の勧めに応じ自寺を十六世に譲り、長泉寺二十五世として住寺したと言う。それは、文化年中(一八一二)である。一六世禅教機徹和尚。この機徹和尚に入門した「機岳」(文化七年、明治二十二年)について若干述べると、機岳は西成瀬村(増田町)猿半内、高橋与右エ門の長男新蔵と言い、通称大俊といった。新蔵は、医師竜達のすすめにより、大屋寺内村正伝寺に到り、禅教機徹和尚の門に入り、曹洞宗の開祖道元上人の著作、「正法願蔵」五九五巻を習得、嘉永四年四十二才で妻子を捨て出家、大曲の大川寺大教哲俊につき得度、湯沢の清涼寺(佐竹南家菩提寺)で大般若経六百巻を写す、また、秋田の天徳寺(佐竹家菩提寺)では大屋新町村出身阿部梵随の指導を受ける。その後、秋田の円信寺、大平中村の村清寺等で刻んだ仏像(地蔵)は、千体を越えると言う。明治元年十一月大倉村(稲川町)常在寺に入り、千体地蔵と十六羅漢を彫刻、一字竜も美術的価値が高い。八十才没。「常在機岳左人之伝」。(稲川郷土史。西成瀬郷土史)十七世、孝順教随和尚。十八世、祖宗賢翁九世、禅山寛随和尚。二十世、随意開辟南山一乗和尚。南山一乗和尚は長男に先立たれたため、次男を後継者にと心の底に秘めていたものと思われる。ところが、二十一世指名問題で壇中役員会が二派に分かれた。一派は関山淋乗和尚を押し、あとの一派は南山一乗和尚の子息を押すという具合である。関山淋乗和尚はもともと南山一乗和尚の直弟子であり奈良で一寺の住職をしている、しかし、何と言っても、自分の修行した寺に住寺することはこの上の出世はない、それに奈良の寺は小規模で不備であったという。機を見るに敏であった関山淋乗和尚の物心両面の攻勢に敗退せざるを得なかったものであろう。当時横中から大学へと学府を踏みながらも、物に乏しければ今も昔も同じこと敗退せざるを得ない。南山一乗和尚派は子息を奈良へ、奈良から関山淋乗和尚を迎え交換する形で解決されたと言う。淋乗和尚の度胸の良さと弁舌のさわやかさは後年政治に身を置くなど向気の強さを如実に見る思いがする。小柄な身軀から発する豊富な声量、その読経は四囲を圧する名調子で何百人と多出するものではない。晩年は不遇であった。奈良から相伴って来た伴侶を戦後失い昭和四十五年後半病に倒れ、法務も遂行できない状態となり、高弟春光寺荻津師が代理を務められた。昭和五十年九月二十一日示寂された。傑出した昭和の名僧と言うにふさわしい人物かも知れない。亡後壇中役員会において協議の結果、淋乗和尚子弟小原昭賢和尚を仙北郡戸地谷円福寺より招聘、二十二世、現住である。前に紹介したとおり正伝寺本尊は「聖観世音菩薩」であり、県重要文化財の指定を受けている。山門と本堂の棟札があるので紹介して置こう。

本堂屋根板金にふき替え、後背取付工事、位牌堂新築等は、昭和四十七年?五十年迄年次計画で完成、二十一世淋乗和尚時代。同五十五年豪雪に依り山門倒壊、同年新築、五十六年落慶式挙行。同五十八年庫院新築完成、楼門(鐘楼)は大正十四年二十世南山一乗和尚代に建立されたもので、梵鐘は山形から鋳物師を呼び寄せ現地で鋳造したものという。昭和二十年太平洋戦争末期軍の命令に依り、山門の屋根の銅板と梵鐘が供出させられることになり、前住、気骨者の淋乗師が役場の係に散々文句を言って食い下がっていたのを思い出す。昭和六十三年、楼門屋根銅板ふき替え復元工事をすることが決定した。その決定がなされてから数日後、鈴木雄太氏(役員)梵鐘寄進の申し入れがあったとの事で、楼門の補強工事も行われ十一月復元工事は終わった。梵鐘は十二月二十日午前八時頃到着した。九時過ぎから準備を始め十二時過ぎに無事吊り下げることが出来た。撞木(しゅもく)が取り付けられ引き綱も付いた。おそるおそる引き綱を力一杯引いて付いた鐘の音は余韻と言うがさすが重厚な音色であった。十二月二十五日梵鐘落慶法要除幕、突き初めがあり、、春光寺、黄龍寺、香最寺、各方丈方の読経に続き、壇中役員並びに世話人参詣のもと本堂における儀式を終え、鐘楼に移り鈴木雄太氏の孫及び曾孫に依る梵鐘除幕が行われ引き続き突き初めも行われた。小原昭賢師先導に依る落慶法要除幕式は滞りなく終了した。鈴木氏はその後、私に「ゆっくりした」、ともいい、「ほっとした」、ともいった。その言葉は何を意味するのだろうか、この度梵鐘を寄進するにあたり、幾百、幾千の御仏を鎮魂のために捧げると言っていた。成しえた安堵感であろうか、また、最愛の伴侶に早世された時も、等身大もあろうと思われる金銅観世音立像仏を寄進している。また、寺の庭園内にも御影石の台座に金銅のミニ五重の塔(燈籠)を寄進している。尚台座には墓碑銘が記入されていると記憶している。「言うは易く行うは難し」という格言の通りなかなか出来る事ではない。鈴木雄太氏の心の豊かさを垣間見る想いがした。

梵鐘は正伝精舎の霊魂に安らぎの美音を与えるであろう。そして祝融の山に悠久にこだませよと願ってやまない。

正伝寺は螢山紹瑾が開いた能登の総持寺(当時石川県、現鶴見)が本山となっている。通幻派五哲の一人、了庵慧明が神奈川県足柄郡関本に大雄山最乗寺を開山し、最乗寺の末寺として、安叟派宗榜が小田原早川に海蔵寺を開創、その末寺が正伝寺である。世に言う能登派たる所以もここにある。ある宣伝文に「当時は曹洞宗大本山永平寺下、十二世海蔵寺第三世大洲梵守大和尚禅師が、今から約四百五十年前に開創した寺であり、宗門に特抜の地位を占めている旨の意が見られる」。永平寺下、十二世の意が解せない、それに宗門に特抜の地位とあるが、平鹿町樋ノ口の住職戎谷淳栄師の善福寺は、海蔵寺開祖安叟宗榜の後を継いだ天室正運の開祖であり、明沢の香最寺、植田の護昌寺、三梨の桂薗大屋の正伝寺、この五ヶ寺の門首として藩政時代から君臨していた二大宗門と言われている今日一考の必要もあろうし寺の成り立ちなど史実に基づいて書き直す時期にきていると思う。道元を出発点とし、事実上は螢山派によって支えられた曹洞宗が最大の宗門として栄えつづけてきたのは、根底に座禅を中心とした優れた思想と、一方では、螢山に代表されるような、民衆救済の論理という。極めて幅の広い両極の考え方が同時に存在し、その双方がそれぞれ各時代の要請にこたえながら、精進を重ねててきたからにほかならない。従って、好むと好まざるとにかかわらず、このような二つの立場をふまえて、将来それをどのように調節して、新しい時代に適応させて行くか、そして布教のための手段方便は果たして何処まで許されるのか、けだしそれは今後の曹洞宗に課せられた永遠の課題ではなかろうか。

「弥左エ門のこと」

寺内集落に通称川前という所がある。大屋川が東西に流れている辺に、現在の河正さん宅がある。その昔、弥左エ門という肝煎の屋敷だったと言う、この弥左エ門について説話がある。角兵衛という百姓が年貢を怠って納めようとしない。怒った弥左エ門が角兵衛の家を取り潰した。それが無慈悲の沙汰とあって、磔の刑が決まった。すごすご村道を引かれて行く弥左エ門が、正伝寺門前で和尚の姿を見つけ一縷の望みを託したが、和尚とて救ってやりたいのは山々だが、如何ともしがたく、見送るだけであった。哀れな囚人の姿が、何時までも瞼から消えず、不憫に思った和尚は、自ら施主となり弥左エ門のため墓石を建てた。正伝寺境内鐘楼の下、左側は六地蔵、右側が弥左エ門親子の墓石のようである。「一刀清句信士」と法名があり、元文辰二月二十七日(一七三六)の死亡年月が刻まれている。また、弥左エ門辞世の句と言われるものに、「重太郎や罪の深さは大屋沼、早く頼めや長谷の観音」。こんな昔話をしてくれる古老も居なくなった、寂しい限りです。

梵鐘は青銅色仕上げ、高さ四尺九寸八分。直径、二尺八寸。重量、二百貫。周囲に次のように記されている。 追記
鈴木家代々菩提
  寄進者、 鈴木雄太、 八十八 才
      南無聖観世音菩薩
       正伝寺 小原昭賢代
             昭和六十三年十二月吉日
       南無釈迦牟尼仏
       高岡市 鋳物師 老子次右衛門


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↑タイトルの画像は?
掲示板に投稿された「議事堂周辺の大屋梅」、投稿記事【22】、の写真を元に加工されたものです。

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