ふるさと栄会

わが郷土の歴史(2/7)

柴田秋太郎プロフィール

ページ1外ノ目村(地名の由来) / 観音堂・・外目村
ページ2: 大谷館(大屋館) / 大屋新町村 / 栄神社
ページ3吉詳山両学寺、神原家 / 新田山光徳寺真宗大谷派 / 大屋寺内村
ページ4正伝寺・・大屋新町村鬼嵐 / 弥左エ門のこと
ページ5新藤柳田村 / 鵈鳩(みさご)、みさこ地蔵
ページ6赤谷地 / 八王寺 / 馬場(安田原)
ページ7婦気 大堤 / 楢沢

「大谷館」(大屋館)・・・・所在地 鬼嵐

山麓を旧羽州街道が通り、大小の溜池によって潅漑される水田が多く、戦国期すでに「食邑千貫」の地であつた。東(横手沢)と南の渓流を水濠に当て三方急崖をなす三角錐状の頂上に、二の丸、東西約三十五メートル、南北約五十メートルを設けている。その峰返しに見られる狭長な平担面も何らかの郭であつたろう。主郭は北のやや低い峰に置かれ東西約二十メートル南北約二十三メートル程度である。この東縁に大規模な空堀(幅約六メートル深さ約五メートル)が認められる。そこに三条の堅堀が付随している。

南西端の緩斜面に幅約五メートル、深さ約三メートルの空堀があって、両者ともに高さ二メートルぐらいの土塁を伴う。二の丸の東と南に大小の段地八ヶ所が見られる。馬場跡と思われる。また、仏ヶ沢、地獄沢、法竜等々仏に関係の深い地名の多いのも寺院が多かったためであろう。根小屋は西麓約一キロメートル先に作られていたが、今は堀ノ内北田の小字名が伝わるのみで遺構は消滅した。

小野寺泰道は、三男道寿を大谷館に居城させた。道寿の補佐に、老臣堀口右馬景行をつけた。道寿は幼名を道千代、式部少舗、土佐守と称した。泰道の代ね長禄二年(一四五八)南部三戸城主南部三郎清光が国境を越えて攻め入った。泰道は秋田湊城の秋田泰頼と連合して国見柵駒泣坂で激しく防戦したが、軍利を失って大敗、遂に南部氏の軍門に降った。

寛正六年(一四六五)四月、泰頼と共に南北に分かれて南部氏と戦い、遂に応仁二年(一四六七)大勝して南部氏との絆を断った。泰道は、戦端を開くにあたり、横手愛宕山に朝草刈城を築いて移り、道寿を大谷館に、四男の石見守道周を鍋倉館に、五男の長門守道高を大森館に置き南部氏との一戦に備えたのであったろう。大谷館の道寿も南部氏との戦いに父に従って初陣、戦功を立てた。後年薙髪して入道し帰童と称し北田に住した。永正十六年(一五一九)八月三日、六八才で卒した(小野寺氏堀江系図)道寿の死により小野寺道治が相続した。道治は幼名を道之助、下総守と称した。道治は最上義光の部将鮭延典膳と役内峠で一戦を交えた。天正年中(一五七三?九六)その戦いでは典膳の弟三郎光次を倒し勝利を得た。天正十五年(一五八五)再び鮭延典膳、天童主馬等と湯沢大島原の役で奸計におち戦死(小野寺氏堀江系図)、嫡子幼少のため重臣日野備中守が大谷館主となる。道治の嫡子は又太郎、後に元服してから道家を名乗ったが、父道治が戦死したときは十才の少年であった。祖母は六郷城主六郷氏の出で、また、母は六郷氏の一門である。堀江雅楽頭惟政の女であった関係で、六郷の堀江氏のもとへ引き取られて育ち、慶長六年(一六〇一)小野寺義道は家康によって所領没収、石州(島根県津和野)へ配流されたため、道家は公儀を憚り外祖父の堀江姓とし、瓜の家紋を替紋の違鷹に改めた。六郷城主政乗は父の戦死、宗家小野寺氏は没落した若き道家を不憫に思い、大谷邑に還すに当たり、諏訪明神を安置奉斎して永く家運守護の氏神と崇めよと教えた。道家は分霊を受けて邑に帰り、大谷寺内邑堀ノ内に居住、丘の上に社殿を建立し諏訪神社を祠って守護神とした。神社を祠る丘を諏訪の森と称し、檜木造りの社殿に金色燦然たる御厨子は価千両といわれたという。現在の社殿は「文化十三年(一八一六)丙子鎮守大明神本社荘厳新造営」とあるからこの年に建立されたものと思う。(小野寺氏、堀江系図)

佐竹氏の入部により日野氏も角間川に落ち、佐竹氏の輩下となる。かくして、大谷館は破却の運命をたどることとなった。

鬼嵐は平右衛門(現在の阿部平治氏宅)、彦右衛門(現在の藤原鎌彦宅)の二家より起こり、先祖は(元慶二年、八七八)夏、出羽の俘囚が反乱を起こしたおりに鎮定のため、小野春風を鎮守府将軍となし出羽に進出した。その時の随伴の臣といわれ鎮定後この地に土着したものといわれている。また、中里の「治部、斉、和泉」の三家の先祖を平家の一族なりと云うが、文治五年(一一八九)の平泉の藤原氏滅亡に際しての落人と見たい。文治元年(一一八五)平家滅亡と混同しての所伝と考えられる。「佐川良視氏」彦右衛門は江津と号し江州(滋賀県)の出身といわれている。庭にある梅の木は大屋梅の祖といわれ、現存のものは三代目のものである。

文化、文政の頃(一八〇四?二四)「菅江真澄」が見たままを次のように記している。「江津が庭梅おなじ鬼嵐の彦右衛門が庭にあり、まことに大樹にして出羽陸奥はいうもさらなり、かかる梅の木は世にたぐふかたやはある。花は一重のうす紅にて里民は浪花梅といえり。樹の高さ三丈四,五尺(約四メートル五十センチ)、東西十二間(約二十一メートル八十センチ)目通り一丈一尺(約三メートル三十センチ)とある」。彦右衛門家は藤原氏を名乗り阿部氏と共に連綿として栄えている。また、阿部平右衛門の二男として生まれた梵随は九才の春、本人の希望で重福寺(大雄村)へ入り小僧となった。小僧の頃から俊才で師僧を驚嘆させ檀家の評判となるに至った。師僧の推薦で天徳寺の恵海順教和尚の弟子となった。(天徳寺は佐竹氏の菩提寺)天徳寺で修行の後、越後へ雲水となって永く行脚し帰国、男鹿の自性院に入り(在院三年)仙北郡の雲仙寺へ移った。雲仙寺から湯沢の佐竹南家菩提所である清涼寺に迎えられ住職となり、さらに正洞院住職を永くつとめ、その後、天徳寺住職に迎えられ第四十八世の法燈灯を継いだ。梵随和尚は、詩学を晩唐の句調にならい五三堂の風を好んだ。書は菱湖の流れを汲み、深沢菱潭等の筆意を研究して真行草をよくした。書は殊に近国まで名声が高かった。明治一九年頃、秋田師範から書道の師に招聘された。書号を鳳字と称したという。七十才の天寿で遷化した。村草創時の両家が繁栄していることは目出度い限りである。

「大屋新町村」

大谷新町とも書く。「享保郡邑記」(一七二〇)横手盆地の東端、横手川渓口部の南方四キロメートルの山麓部に位置する。中世末期の領主日野備中守某の城下町として発展して来たもので地名の由来も「大谷館」のこれからきたものという。また、「雪の出羽路」によれば、村の中央を南から北へ、旧羽州街道が通り、中世は大谷村と呼称した。「近世」大谷新町村、江戸期・明治二二年の村名、出羽国平鹿郡のうち。秋田藩領「正保国絵図」(一六四五)には大屋村五八八石「元禄七郡絵図」(一六八八)では、大屋新町村五八八石と図示。「享保郡邑記」では中里、鬼嵐、、杉野下の三枝郷で戸数五八、うち枝郷分三二「享保黒印高帳」による村高四一六石、当高四一九石(本田三〇〇、本田並四五、新田七四)明和七年(一七七〇)の堤数一〇「村々堤見分並日記」「寛政村附帳」(一七九〇)には親郷は横手その寄郷となっていて、当高四〇四石余り、(うち蔵分九、給分三九五)「天保郷帳」(一八三〇)には四一九石とある。また、寺院も多く、三ヶ寺を数える。詳細は後記する。それに旧家も多い。源内、仁助、治兵衛、六右衛門、儀右衛門、市兵衛、七十郎、平内、仁左衛門等の九家はそれぞれの原祖といわれ「藤原久左衛門氏大屋郷土誌」によれば日野備中守の臣たりしや と記されている。その旧家の中で治兵衛家には、代々系図が伝えられている。「堀江治兵衛家譜」○清和源氏の末流にして堀江の義光第五代
○下野守義胤○大炊助義定○金吾義則其男義信母深草出也○義氏頼氏○義純法楽寺殿○足利判官義昌成義景光○岩次郎義範○帯刀先祖義賢○堀江堪四郎源実芳中将也
 応永元年(一三七四)甲子正月吉日 義景(花押)

「この治兵衛が家に先祖の遺物として、年久しく秘めたるが、ことし正月ひらき見しかば、しかじかのよしありといへり」(雪の出羽路)また、平内家は慶安(一六五〇)年中の豪族大隅雅楽之助(現当主哲男氏)七ヶ村総肝煎といわれ、村東に広大な屋敷、それに居宅を構え堀をほり廻した村人は「館の堀」といったという。(大屋郷土誌)

昭和三十五年頃まで遺構が見られたが、その後の土地改良により遺構のほとんどが消滅した。今は土地の古老の語り草に残るのみで残念なことである。

「栄神社」

「太子堂(栄神社)」は正伝寺開基に協力した禅僧三人の一人で大海が中将姫が蓮糸で織ったという。曼茶羅聖観世音(金銅仏)聖徳太子木像、この三信仏を笈に修めて修行したという。曼茶羅は山内村上黒沢与右エ門家にあり。聖観世音は正伝寺の本尊として現存し、県重文に指定されている。聖徳太子木像は大屋新町村源内家(現当主高橋源悦氏)の屋敷内に小祠を建立し、村の鎮守として奉置した。明応年間(一五〇〇)の頃である。また現在地に移築された年代は不詳である。

太子堂現在の御堂は寛政十二年(八〇〇)新田山光徳寺の立て替えられた年であり、膨大な残材をもとに大屋若神子沢からの伐木により木匠(大工)もそのまま移動して完成されたものという。彫刻の素晴らしさは目を見張るものがあるが大工の出自が判らず、作者不明であるのは残念でならない。明治初年、神仏分離令により、聖徳太子は神にあらず、仏であるとされた。その時太子木像を縁の下へ隠してその場を逃れた。その太子像は大海が源内家屋敷内に祠を建立し奉置したものではない。その像は不明である。現有の像は宝永元年(一七〇四)六月二十二日、仏師村木伊右衛門作である。(神原氏)。また、昭和五十四年奥殿建立、本殿内装の際箱の隈から二寸位(六センチ)の太子木像が発見されたという。願形、充実した力量感、崇高、静寂の境地、明るい神秘感、まさに小像中の傑作というべきではなかろうか、かなり古い年代のものと思うという。(神原氏談)いずれ専門家の鑑定を要するであろうが、禅僧大海と接点があれば興味のあるところである。太子堂を大谷神社と改称された。大正二年一月十四日その向きの許可を得て六部落の神祠を合社して栄神社と改称した。昭和二十年終戦によって大きく世の中が変わった。先ず憲法改正である。信教の自由によって栄神社に集められていた六部落の神社の御神体が、それぞれの村へ帰ることになった。それが村の鎮守としてのメルヘンに出てくる本当の姿のような気がしてならない。昭和二十四年五月国立博物館陳列部長石田茂作博士が東北地方の古仏調査に来訪、正伝寺本尊を調査しての帰途、太子堂を見分されて曰く、寺院造りであることを説明して帰られたという。百八十年余を経過していまなお立派な建物であり文化財である。大切に保存したいものだと思います。


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↑タイトルの画像は?
掲示板に投稿された「議事堂周辺の大屋梅」、投稿記事【22】、の写真を元に加工されたものです。

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