わが郷土の歴史(3/7)
ページ1: 外ノ目村(地名の由来) / 観音堂・・外目村
ページ2: 大谷館(大屋館) / 大屋新町村 / 栄神社
ページ3: 吉詳山両学寺、神原家 / 新田山光徳寺真宗大谷派 / 大屋寺内村
ページ4: 正伝寺・・大屋新町村鬼嵐 / 弥左エ門のこと
ページ5: 新藤柳田村 / 鵈鳩(みさご)、みさこ地蔵
ページ6: 赤谷地 / 八王寺 / 馬場(安田原)
ページ7: 婦気 大堤 / 楢沢
「吉詳山、両学寺(今は廃寺)」、神原家 大屋新町村鬼嵐
両学寺の祖は、陸奥の国(岩手県)胆沢郡水沢の士で、姓を酒水左近某とて英雄の士であったが、浮浪の身となり、出家して薙髪染衣に姿をやつし、諸国修行の心がけにて永禄三年庚申の春出国する。その国にて寺久保の兵術一流を極め、その伝法の一巻いまあり。また、兄も同じ年出国、俗姓神原刑部と名乗り、平鹿郡馬鞍郷に来たり、小野寺の臣関口能登守殿、蔵王権現社建立ありし時刑部山伏となり、別当仰付けられ後、三嶋八幡宮の別当職となった。左近は出羽国平鹿郡大谷の郷に来り、小野寺の臣城主日野備中守の帰依によって(一説によれば阿部平右エ門訪ね、平右エ門が城主へ案内したともいわれている)この地に居住、山王宮に宮林の寄付を得て別当職を命ぜられ累世連綿の祖となったものである。
小野寺家没落後、日野家も角間川に落ち、佐竹氏の入部により大屋館も破却の運命となり、山館として両学寺の管理するところとなった。「当寺の門の欄額は古柵の門の株貫で緋柱で作られていた。丸の内に橘の家紋があったものを近き世の木匠がなんの心なく削り落としたという」(雪の出羽路)「この門は横手市寺町円浄寺の山門として建っている」佐竹氏入部後の両学寺は修験道場として栄えた。開祖快永法印、二世永栄、三世永易、四世永養、五世永勇、六世永山、七世永順、八世永峯、当代天明年中御公儀より、本田高拾石拝領致し御朱印頂戴す。九世永林十世永鑁 当代寛政年中新田高五十石拝領御朱印頂戴。「当時先年苑斎執行せし寺ながら、中古中絶せし処、寛政年中願上候処、古来の通り仰渡され候也」。十一世永隆、十二世永眉「永眉ハ、度量宏大ニシテ小サカリシ時嘗テ努色ヲ露ハシタルコトナシ」(大屋郷土誌)と記してある。聡明であったと思われる。十七才の頃、その宗の極意を極めるため、京都三法院宮に修業すること十三年間に及んだという。帰郷後、嘉永年中(一八五〇)佐竹公の帰依により、祈祷所の一つに加えられ、武運長久の加持祈祷執行仰付られ、禄高三十石御朱印拝戴。国内の首領に任ぜられ、春秋二回国内全宗の修験を太子堂に招集し、同処に於いて柴燈と火護摩を焚き、大般若経を転読し以て国家鎮護の祈祷をしたという。永眉は品行方正、自分に厳しく、他人にやわらかで、貴賤貧富のへだてなく、胸中いささかも府城を築かず、あくまでも感化薫陶せざれば止まずの信念に仰者常に群集したという。また、その傍ら近郷の児童等に寺子屋式教育を教授し郷民の尊敬の的となった。諏訪神社境内に「碑」が建っている。十三世永慶、権少講義(神官)十四世通称良蔵(神官)十五世現世通称良之助(神官)、大正の中頃「良之助氏」代現在地に移住し栄神社専任神官となる。
昭和三十年、宗教法人登記年に秋田県神社庁が設立され、栄神社も登録された。秋田県で登録されている神社数、千百拾弐社、聖徳太子社は八社を数えるのみ、なかでも秋田豊岩、豊平神社の太子木像は県の有形文化財指定となっている。
「新田山 光徳寺」真宗大谷派 大谷新町中里
「本尊、阿弥陀如来像」開基釈円祐は俗姓新田二郎右衛門尉興徳という。新田義貞の二男新田二郎右衛門義斎が初めて黒沢尻(北上市)に住み、義斎の嫡男元斎の代に相模の国(神奈川県)鎌倉に移り、元斎の新田源三郎正興も同所に居住し、正興の次男が興徳である。ところが文正(一四六七)、応仁(一四六九)の頃足利家を恐れ発心、本願寺第八世、蓮如上人の弟子となり、延徳年中(一四八九~九二)に古き因縁を求めて黒沢尻に下向し、丁字を草創、俗姓をとり「興徳寺」と号した。二世正乗のとき、本願寺第九世実如上人の思召により寺号を「光徳寺」と改めた。その後永正十六年(一五一九)の飢饉により、出羽国平鹿郡馬鞍村(平鹿町)上之台に移住した。三世浄専のとき、大屋館の城主小野寺家の臣日野備中守の帰依により永禄年中(一五五八~七〇)に現在地に移った。この由緒により、小野寺家の没落後佐竹家に従臣して角間川に移った大旦那日野家は檀家となったが現在は断絶した。四世浄慶は、永禄以後に小野寺家と山形の最上勢とが対戦したときに、法躰に武装して出陣、戦功により刀、田、山等寄付された。五世真誓、六世浄徳、七世永玄、八世浄嶺、この代本山十三世御門主宣如上人より蓮如上人の真影をゆるさる。この画像の御裡書は則御門主宣如上人の御染筆也。本願寺、釈琢宣如御花押蓮如上人真影、寛永十五戌寅(一六三八)暮初秋二十三日書之出羽平鹿郡横手大屋村新田光徳寺常在物也。九世浄玄、本山十四世琢如上人より木仏像ゆるさる。御門主真筆の証あり。釈琢宣如御花押木仏尊像、万治三年庚子(一六六〇)賜氷節、羽州仙北横手大屋村新田光徳寺願主釈浄玄、十世祐心、本山十五世常如上人より開山聖人の真影を免される。裡書は御門主の真翰也。
羽州大谷村新田光徳寺 願主釈祐心、大谷本願寺釈常如御花押 親鸞聖人御影延宝四季丙辰夏五月中旬書之。
十一世了空、本山一如上人より元禄七年甲戌太子七高僧の御影免さる。御裡書は則一如上人の真筆也。宝永元年(一七〇四)飛檐出仕免さる。その外一宗の定式の仏像、絵讃、洪鐘等悉く周備す。正徳六年(一七一六)五月二十日参内権律師勅許論旨頂戴せり。十二世義琳、寛文五申年佐竹淡路殿より五十石寄付の高あり。この高後に御禄高に減少の節、御割合を以引上に成る。右残高明和五年中又御借上高に相成、その節御屋敷へ残り無く返上。右高五石は永代寄付に付置唯今の所務高五石也。此代
○延享四年丁卯八月権律師勅許宣旨頂戴、長橋へ参内、禁中御仙洞御所、女院御所直献上、摂関伝奏、上卿弁官職事何直献上
○寛延元年辰六月、従如御門主思召を以て御取立余聞御一家昇進輪袈裟免される。真如上人並の真影を賜う。此の御裡書は則従如上人の真筆。同二年巳八月本山御殿失火で同上京御内証の献上一種銀一枚於白書院御対顔、平座御褥御着座御言有之。奏者時に御用人苗村民部。
○宝暦十二歳御門主乗如上人内陣出仕免される。並銀子二十枚拝領。右寛延年中改派寺の儀兼ねて落着之のため御褒美御取の御事、同年春改宗派寺の儀に付御内々蒙仰上京。本山表御順宣に相済候ため御褒美同年十二月に高二十石拝領、三ヶ寺のため扶助料玄米三十石被下置禄寺に被召立、未八月御朱印頂戴。同年十二月為御国用御領内東一派触頭被仰付候御事。明和ニ御君様入府、六月二十五日御目見被仰付於御城金ノ間ニ御盃頂戴。献上十帖一本。
○当寺は仙北三郡東一派寺号建立之始也。十三世宗全、安永五年申十一月三ヶ寺古絵替、御領主様御懇望にて従本山右御絵替御進達被為有之候、類年来御取扱ひ御双方様御順宣に被相済候為御賞美金子拾両拝領被仰付候事。安永七戌年十月三ヶ寺地面拝借被仰付候事。宝暦年中頂戴の御朱印御引上げ、寛政七年卯十一月に御黒印頂戴、此の御判紙写。0二0石、六ツ成(税金)光徳寺
内十三石、平鹿郡大屋新町村之内 内七石、平鹿郡外之目村之内、寛政七年卯年十一月十五日御黒印。十四世義亮、此代寛政十二年申年本堂再興造作悉皆周備す。
文化十二年亥七月九日入院御届相済。本山二十世乗如上人の真影免さる。御裏書則御門主の真筆なり。文政二卯蔵庫裡造営悉皆備う。「雪の出羽路」
数々の寺宝の中で、本堂に懸げられている「無々」の額は天樹院義和公(佐竹)の真筆である。最初町田大之進の取次で「安養界」の三文字横物を拝領したのであったが文化十年酉の秋引上げ、同十一年戌正月現在の額と取替拝領したものである。その他の寺宝については省略。十五世広琳、十六世義応、十七世徹照、十八世孝全、十九世由存、二十世義洞、二十一世現在義雲師、昭和四十年文政以来の庫裡建替、四十四年茅屋根の改修工事を行う。同五十七年庫裡の再度建替。
中世の城下町に連綿と続く法燈は幾多の壇信徒に囲まれて栄えてきた。人間の平等と阿弥陀仏への信仰を熱く説き続けた親鸞。その教えを受けとめて浄土真宗を巨大な教団へともりたてた人たち。彼等の絶望と歓喜の生涯に現代の我々が生きるための指針を今後どうやって見いだすのか、それは二十一世紀の課題であろうが、信じてきたものには変わりはない。歴史はそう教えてくれる。
「大屋寺内村」
往古その名称詳かならず、もと大谷と唱えて三ヶ村を云う。即ち寺内、新町、新藤柳田なり。水源の組合により称したるものの如し。大谷とは南北連山相対するを言うならん。慶安年間郡司代官某氏云々す。湿水の地にして大谷とは(谷)火の口と書いて乾燥の字義なれば、是は土地に不適当の意味なりとて「屋」の字に改称すべしとて、検地御帳の表紙に「大屋」と書き染めたるによるという。「大屋郷土誌」
大谷寺内とも書く、「享保郡邑記」横手盆地東端横手川渓口部の南方五キロメートルの山麓部に位置する。堀ノ内には戦国期当地域を支配した小野寺恭道の三男道寿の館があったという。(永慶軍記)寺内長谷には縄文遺跡がある。村名は大谷の寺内の意味で、中世大谷に長谷山観音寺という寺があったことによる。「近世」大屋寺内村、江戸期~明治二十二年の村名、出羽国平鹿郡の枝郷寺内村として図示「元禄七郡絵図」には大屋寺内新田村二五〇石余と図示され、新田村として独立し、村名改称した旨が幕府、藩に報告されている。「元禄一五年(一七〇二)変地目録」(大竹文書)、その後、新田の字をとり大屋寺内村として「享保郡邑記」では楢沢、熊野沢、寺村、堀野内、長畑の六枝郷、戸数五五軒、うち枝郷分四二軒、「享保黒印高張」の村高三七〇石余、当高四二〇石余、(うち本田三三五本田並七一、新田一四)寛延三年(一七五〇)、「郷村高辻帳過不足高調帳」には延享三寅年より八村。元和年間(一六一六)餅田村「新藤柳田村の古名」で築造したという大屋沼(雪の出羽路)ほか小沢水、余水を利用した堤が多く、明和七年の堤数一五「村々堤見分並日記」。「寛政村附帳」には親郷に横手町の寄郷、当高三五七石、(うち蔵分四、給分三五三)と記載、「天保郷帳」は四二〇石余、堀江平蔵(現当主養一氏)は、小野寺氏ゆかりの家柄で、村草創時からの旧家であり、肝煎役をつとめた。平蔵の父、道家は二八才の若さで没した。小野寺氏没落後司官を廃め、農業に従事したとある。
「小野寺氏堀江系図」堀江家の宗家でもあり、数軒の分家もある。「寛政元年巳酉、大屋寺内の邑農夫の長に命ぜられ邑形郡で、進退取締悉く皆指揮を成す。文化六年己巳(一八〇九)、勤労を賞せられ、郡司僚より青銅一千穴を賜い郡司に謁し、共に其の恩に奉謝」。「小野寺氏堀江系図」また文化八年辛未(一八一一)参勤交代で天樹院義和公が立寄りになった、その時のことも書かれている。御国司様御参府及、御下国等で御通駕の時向後、御立寄とめ御駕を促し賜て御息所に賜う事を命ぜられ且つ、その度嫡子政之助、上下服着、御通駕街道口まで御送迎御案内可仕の旨命ぜられる。且つ右諸雑費奉献す。御立寄り毎度御賞として金百疋宛頂戴、長く家の重宝となす。文化十三年(一八一六)丙子鎮守、諏訪大明神の本社荘厳新に造営なる。(小野寺氏堀江系図)
※ 江府へ御通駕街道口まで御送迎とは、江府は江戸、駕篭の通る街道、羽州街道国道13号線。羽州街道は、元和二年諸大名に参勤交代をさせるために開削されたものである。
※ 大屋館の項で記したが、現存の諏訪明神本殿文化十三年の造営と考えられる。
元亀(一五七〇~七三)の頃熊ノ沢に熊王山明泉寺があった。現在は平鹿町本堂にある真宗大谷派の寺である。あるとき、二世浄世坊が門前を引かれ行く罪人をみて哀れに思い、助けようと役人に嘆願したところ、その振る舞いに無礼があったとして、大谷の熊ノ沢に追われ、この地に寺を再建した。因みに立ち退いた寺跡には郷社と呼ばれている神明社が建っている。寛永元年(一六二四)五世の専通坊が熊ノ沢から現在地に移って寺を建てた。熊ノ沢に五十余年居住したことになる。
「長谷に千有余年を経たる、雄大なる銀杏樹あり、その回り二丈余にして、体幹高さ丈余の所より、片すみの木の枝の如く、銀杏樹の枝穴より生じ、その回り三尺有余にして枝葉また茂り、また、その一段上部高き所より桜樹回り二尺余もの是また枝の如く生じ、昔固木の朽穴より枝の如く生じたるありければ、里人は七色銀杏と称せりと。また、境内に接近せる東北隅にあり、南方に面する小丘があるが、そこに小塚あり、明治二十年頃開堀するに往昔用に供する金具発見せり、しかし、その先端は消滅するをもってその用途詳ならず。」(大屋郷土誌)
旧羽州街道が大屋沼へ抜ける所に三十メートルばかり完全な形でのこっている。その西側にも小塚が一基ある。そこは前記の塚から五十メートルぐらい離れた場所である。何か関係がありそうな気がしてならない。それはまだ手がつけられていない。いずれにせよ長谷は歴史の古い場所に違いない。
○初瀬観音祠、祭日四月十七日、祭主勘重郎、本ト国谷氏より五石の寄附ありしところにて、もとも国谷氏の知行地也。(雪の出羽路)
村鎮守、神明社、のほか、諏訪社、日吉社、熊野社、弁財天社がある。中世末期寺村にあった長谷山観音寺は、大永年間(一五二一)災厄にあい曹洞宗祝融山正伝寺と改称し、明暦、万治(一六五五~五八)の頃大屋新町村鬼嵐の現在地に移転した。
○長谷山の観音寺跡地に小祠が残っている。 ○七色銀杏樹は全盛の頃神宮寺から見えたというが、何時の頃か雷の被害にあい、根本から銀杏の若木が数本生い茂っているが昔の面影はなく、名残をとどめているに過ぎない。 ○諏訪神社の祭礼には大屋番楽が奉納されていた、貴重な民族芸能であったが戦後途絶えた。後継者難であったろうが残念でならない。
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