ふるさと栄会

外目の歴史(3/4)

小 林 鉄 也プロフィール

ページ1: 外目村を通る羽州街道(往還街道)
ページ2: 外目を襲い悩ました飢餓潰のこと
ページ3: 外目村に於ける明治戊辰戦争物語
ページ4: 参照地図

外目村に於ける明治戊辰戦争物語

慶応三年十月十四日徳川慶喜は大政を奉還した。一.八六七年慶応四年正月三日?五日にかけて幕府軍は薩長外、各官軍と戦って敗北して、将軍慶喜は江戸に帰り謹慎したが、旧幕臣等は西郷・勝の両雄との会談に依り江戸城は無血入城となったが不服として彰義隊を組織して上野に官軍と戦って敗れた。四年正月一五日天皇親政と王政復古の詔書を列国公使に手交し、同時に諸外国と親しく交際する旨を国内に告げたが二月三日有栖川宮を東征大総督に任命して江戸に向かい入城した。奥羽諸藩、北越諸藩等就中 会津藩主容保は京都警備として常に薩長等に敵側的に廻っていた関係上旧幕維時、新政府に従うに反対で三月戦うことを決意した。三月二日新政府は奥羽鎮撫総督九條道孝、副総督沢三位為量等は仙台領に上陸して、仙台藩を会津攻略の先鋒に秋田藩を庄内征討の先鋒とし、米沢、盛岡の二藩にこれを救援させる方針をたて、関係諸藩に出兵を促した。四月十一日仙台藩主伊達慶邦は兵を率いて白石城に入り、会津国境にせまったが、もともと仙台、米沢二藩に会津を討つ気持等全くない。それで両藩が協議の上、九條総督に会津救済の嘆願書を提出した。慶応四年閏四月十二日のことである。ところが九條総督内の長州出身参謀世良修蔵はこれを却下した。逆に会津討伐を強く主張し、自分自身白河口から福島に入って遊郭に投宿したが、世良からの密書が同参謀大山格之助へのものが、仙台藩士瀬上主膳の手に渡り、その密書は会津討伐を一刻も早く実行するものであるので、瀬上は世良の宿舎金沢屋を襲い捕らえて阿武隈(福島県)河原で斬殺した。一方庄内方面に向かった。副総督沢三位為量は四月十二日参謀大山格之助薩州隊長和田五左エ門、長州隊長桂太郎以下を率いて仙台を発し四月二十二日天童(山形県)に入った。そして天童から新庄に進んだ官軍は四月二十四日清河口(山形県)に向かったが立谷川渡河地点で庄内の守将松平甚三郎の攻撃を受けもろくも撃退された。敗報に接した副総督は参謀兼軍艦の薩州藩士篠崎東次郎、長州藩士内田謙次郎を急派して諸隊を指揮させ、寺津、長崎、佐沢の三道を野田口、旧井、高関、窪の目を守った。閏四月四日未明庄内軍は最上川の上流を渡り、各地の官軍を打ち破って一挙に天童城にせまって来た。城兵は防戦したが、庄内軍の攻撃はすさまじく、ついに敗走をはじめ燃え落ちる城を望見しつつ前藩主織田信学を擁して仙台におちていった。さきに庄内討伐を命ぜられた秋田藩では再三書を送って、官軍への帰順を説いたが、庄内藩が頑として応じないため、藩主佐竹義堯は武力討伐にふみきり、諸軍に進撃を命じた。進撃軍は所定の作戦通り行動を起こしたが、観音森(鳥海山麓)にむかった部隊は途中本隊との連絡が絶えて、大須郷(象潟町)と小滝にしりぞき女鹿(吹浦)に向かった部隊は暗夜に道を間違えて川袋(大須郷の隣)に停止するありさまだった。ひとり矢島口の隊だけは国境を越えて升田(鳥海山東下)に進出したが、そこで庄内軍の攻撃にあって閏四月二十一日百宅(鳥海村)に退却した。翌二十二日庄内藩の家老石倉右衛門は吹浦に出陣し、同夜部隊を二つに分けて大須郷と川袋の秋田軍を急襲した。この突然の攻撃で秋田軍は狼狽その極に達し武器を捨てて遁走した。慶応四年五月一日官軍の攻撃を受け白河城は落城した。五月三日会津、庄内を中心とする奥羽二十五藩が仙台城下に会して会庄二藩の冤罪を要請する嘆願書を太政官に提出した。世にいう「白石同盟」がこれだが、その目的とするところは嘆願そのものより薩長にたいする攻守同盟の再確認であり、藩同志の結束にあった。この同盟には慶応三年九月十五日同盟を結んでいた北越諸藩、長瀞、新発田、村上、村松、三根山、長岡、黒川なども参加し、戦雲は北越の空へと広がっていくのである。長岡藩の河井継之助が藩論を武装中立の藩是を決定して、五月二日河井継之助は官軍軍監岩村精一郎を訪ねて、長岡藩の自主中立の嘆願書を提出したが、二十三歳の岩村は河井の苦衷など分かろうはずがない岩村は即座にこれを拒否した。(岩村の余談あり、岩村がもっと大人であったら、この犠牲をだした戦争はやらなくてすんだであろう)こんなことで北越佐幕軍は長岡藩を中心にして血みどろの攻防が七月まで続くのである。奥羽先鋒総督は暑さもそろそろ峠を越した七月五日、秋田藩、筑前福岡藩に新屋および大沢口の先鋒を命じ、薩、長、肥前佐賀、豊前豊津の四藩に院内口先鋒を命じた。そこで七月六日別動部隊二百と肥前兵百が新屋口ならびに庄内三崎に向かい、これとは別に薩、長、肥前、豊津の藩兵が院内口めざして進んだ。つづいて翌七月七日には、秋田の第一陣四百三十人が新屋口へ、第二陣三百人が大沢口(雄物川町)へ、第三陣二百五十人が田代方面へそれぞれ進発した。院内方面の奥羽同盟軍はその頃新庄領金山に本陣をかまえ、及位(真室川町)、蟻谷(金山町)大滝(真室川町)などの拠点を守っていた。彼らは横堀を出発して七月十一日朝院内峠を下って来た官軍をみると、直ちに及位の山上砲台から砲撃を加えて来た。上からのねらい撃ちだからたまらない官軍部隊には死傷者が続出し、ついにその本隊は院内峠に後退した。しかし横堀から間道に向かった長州藩士桂太郎の率いる一隊が大滝の敵を攻めて金山にせまり、同じく役内(雄勝町)間道から進んだ薩州、肥前の部隊が峻領 重嶂を越えて七月十一日蟻谷、稲沢(蟻谷の隣)の敵をうち破ってこれにせまって来たので、両軍挟撃して金山を攻め、これを占領するにいたった。金山を奪取された奥羽同盟軍は及位の守備陣地を捨てて退却した。これで官軍は新庄方面に部隊の大半をさいてこれを救援にさしむけることができた。そのころ白河方面の同盟諸藩の敗報に接した庄内藩は庄内最強の部隊二個大隊を白河方面に急派したが、その後秋田方面の官軍が庄内国境にせまると聞いて、この部隊は方向を変え、七月十一日新庄領舟形に入った。(この部隊が主力となって秋田領 雄、平、仙、河辺と攻め下り現秋田空港の処まで九月まで占領激戦した)そして七月十三日舟形川をへだてて官軍と対戦した。戦は一進一退両軍互角で容易に決しなかったが、庄内軍の別働隊が密かに川を渡って生い茂る葦の間を潜行し、突然喊声をあげて、四屋村(最上郡)の官軍陣地に決死の斬り込みを敢行したので官軍は狼狽し、川原に進んだ薩、長、肥前、豊津の兵も背後を衝かれて 柏木原に敗走した。勝ちに乗じた庄内軍は新庄を奪取しようと七月十四日早朝長者ヶ原に向かえば官軍は左右からこれを挟撃して舟形に撃退したが、しかし間道を潜行して来た庄内軍の別働隊が猛然と城下へ突進し、町家へ火を放って、猛攻撃を加えたため、新庄藩主戸沢正実はもはやこれまでと城を焼いて落ちのびた。新庄から退却した官軍は及位、田代、大滝の各村に陣を構え塩根坂(真室川町)の嶮に拠って庄内軍の攻撃をくいとめようとした。そこへ米沢、山形、上ノ山、天童、仙台、諸藩の応援を得た庄内軍二千余が来襲し、其の一隊は七月二十五日払暁 、釜渕から 進んで大滝にいたり、官軍の戦線を突破して及位を占領した。このあと庄内軍は本隊をもって塩根川をさかのぼり七月二十八日朝中村(秋田山形県境)越えの間道で官軍と戦い、これを横堀方面に撃退し、逃げるを掃討しながら雄勝町中村に入って、ここで金山町蟻谷から前進して来た米沢藩兵と合流した。庄内藩など連合同盟軍はさらに横堀の官軍を駆逐し、官軍が横手方面に後退するに及んで、全軍秋田領に進入した。庄内、米沢の兵が国境を越えて院内に拠ったころ、北越地方の官軍は日をおって増大し、白河口の官軍もまた二本松をおとしいれるにいたったので、南方国境に不安を感じた米沢軍は兵を率いて帰国した。しかしこのとき仙台兵五百が鬼首の嶮を越えて応援にかけつけてきたため、庄内軍は横手進撃の方針を決め、その手始めとして湯沢を占領した。この時の物語り、湯沢を一戦も交えず易々と占領された湯沢の佐竹南家の家主は幼少のため、その叔父はその責を負い横手町鍛冶町の商家の土蔵で切腹して申し訳したと。横手に向かった庄内、仙台の兵は破竹の勢いで前進した。八月九日官軍の抵抗線岩崎河原で戦ったが、官軍の十文字側は何の遮蔽物のない河原であり、庄内同盟軍は岩崎の薪積場等の防護物があり、射撃戦になって徒に射撃の標的になるばかりで、兵が損傷して隊長が射たれて退却となり、庄内兵に秋田兵が河原で槍を構えても、干し物竿を振り回しても届かなかったとからかわれる仕末、これは郷人足を告げられ徴された人の聞いたことである。次の防禦点 になる外目台場を中心に塹壕等を掘り、今度は岩崎河原と違うと待ち構えた。

外目村の部落民の避難場所として村の後になる久兵衛沢にのがれた。この時熊野神社の処で官軍は陣地構築工事、兵の配置等をしていたところを桜沢の唯であったか(父竹蔵は唯と名をいっていたが私には今わからない)仮に丑か子之吉か 物珍しくながめていた処をスパイ容疑として捕らえられて仕舞った。さあ大変大騒ぎとなって殺されるかも知れない。取り敢えず貰い下げをしなければならず、長百姓等の庄右衛門等は羽織・袴ではるか手前より中腰すって這い乍ら土下座でお願い申し上げます。それがしは当村外目の長百姓の庄右衛門でありまして只今捕らわれた者は当村の百姓でございまして決して怪しい者でございませぬので何卒手前共にお払い下げなさいますよう伏してお願い申し上げますと、これに対して隊長は”うん、そうかよろしい連れて行け”とお許しが出て無事帰ることが出来た。ここ熊野山陣地の隊長は院内の殿様であったそうである。また観音堂(元の場所館山の中腹)に陣した隊長は弁天様の松の枝が東に伸びて前面の見通しが利かないからとて切断を命じて切ったあとであるとて倒木になるまで切りそげた処が残っていた。この陣地構築は八月九日、十日斯くの如くにして陣地を構えた処、庄内同盟軍はこの強固な陣地は攻撃せずして、束、山根の方、真人、亀田、釜の川、馬鞍、楢沢、寺内と大屋衆を案内として山を越え山内村回立方面に抜け、横手城の背後の方に廻り、また他の部隊は左回り猪岡方面より横手の西側に進み、現横手駅西の赤坂三枚橋に砲を据え横手城を攻撃した。

外目台場陣地は戦わずして戦略的要素がなくなり退却した。直ちに庄内同盟軍が進入して来て、外目村も占領軍の領地となり、軍の郷人足を告げられることになり、先ず第一始めの命令は家を焼かなければならないと、庄右衛門は何とかその儀ばかりはお許しをお願い申し上げます、そういうと同盟軍の隊長は煙を上げなければならないと、庄右衛門はそれはおやすい御用でと、薪・藁等を出して煙を上げ、家を焼かれることは免れたが外目坂の専助の家はとうとう戦火を蒙ることになった。官軍が陣地を外目にとった時、桂太郎が来たことを糀屋作兵衛の家の人方が後年語っていたことを思えばこの時の事と思う。

斯くして庄内同盟軍占領地となったため、軍の徴用、郷人足を告げられ、出すことになり、郷人足を出す費用は郷で出すことで、一日の人足賃は一貫文であった由、郷人足が多く出ると、郷費の負担が多くなり、郷民の割り当て負担が多く苦しく、人足に出た時は早く逃れて帰り来ることを暗黙裡に約束していたという。庄右衛門は息子が人足に出た時、家で草鞋を作っていたら逃げて帰ってきてよかったとのこと。祖母は(庄右衛門の妻)この戦争の体験を語って恐ろしいことだ、戦いは火つけ、家焼きだからおっかないといっていた。外目は専助の家一軒で済んだが釜ノ川部落あたりは相当の家が焼かれたらしい。  慶応四年八月九日が岩崎河原の戦いで十一日は横手城の総攻撃であるから、外目台場陣地に據ったのは九日、十日であったと思う。外目台場とは普通字名のある通り壇森のことで、正しくは外目と新藤柳田と境をなして、長坂から伸びて来た峰が、大屋沼の水路を間にして同時に奥羽本線をもまたぎ西にある一丘で面積は一反歩位、高さ十五米位であったが奥羽線敷設の時に盛り土用として採土されたため五米ばかりの一角を残すのみとなっている。現在その一角に立って地勢を見るに北の方横手の方が高く、東南から南西の方が低く桜沢部落まで一望出来て、距離五百米位で浅舞山、泉山、館山、高森等を前面にして攻撃して来る敵を狙い射ちが出来る二段陣地であるから、横手城の第一線防禦陣地として重要な処でありましょう。後年関ヶ原古戦場の石田三成の陣地笹尾山に登って見た時の地勢が何とこの壇森と似ていることか陣地の高低差は笹尾山の方がはるかに差があり名陣地だろうと思う。明治時代ドイツ陸軍のメッケル少佐が日本陸軍に戦術指導に来た時、この石田三成の笹尾山陣地を見て、これはすばらしいと感心したという。戊辰戦争の時の外目陣地は地高差五米?三十五米位の丘阜地で東馬鞍村より西に並んで浅舞山、泉山、館山、熊野山、平兵ェ山、五百刈、樋口、吉田と八粁ばかり絶好の防禦陣地である。熊野山、平兵ェ山の麓には、この時に掘った塹壕跡が最近まで残っていた。

泉山の処を羽州街道が南北に通り外目坂という。後年明治・大正・昭和に渉って陸軍の秋季機動演習の際は絶好の演習地となり小銃、大砲の音が轟くとああ外目坂だなということであった。

戊辰戦争は愈横手城の攻防となるが、それを書く前に慶応四年閏四月九日仙台、米沢二藩の家老連名で奥羽諸藩に送った書が佐竹藩に到着して藩主佐竹義堯は横手城代戸村十大夫義効に白石に行くよう命じた。閏四月九日久保田(秋田市)より六郷に来て十日に嫡子大学と留守の指令をし、角館から雫石と花巻より古川、仙台、白石には閏四月十六日到着した。白石では会津、庄内が朝廷から追討されることについてその理由が明白でないので、諸藩は会津、庄内に同情的であった。その後のことは前に書いた通りの白石同盟となるのであるが、義効は五月十日に久保田に帰ったが正式に朝廷方に決まったのは七月二日であった。

秋田藩は奥羽諸藩の中でただ一藩朝廷方として孤立したわけである。そこで藩境新屋口、雄物川町の大沢口は秋田藩で院内口は薩、長、肥州、小倉の軍が守ることになったが、その後に秋田藩も諸藩の軍とに配分されて、その後の戦闘は前に書いた通りである。この様な訳で八月三日には白石会議に出席した戸村十大夫義効等は生涯蟄居を命じられた。

この藩兵の出陣に際して横手在往の士で外目の庄右衛門の地頭であった士が出陣するので、羽州街道の樋の口橋端で見送りに出ていた処、庄右衛門を見付け、庄右衛門、後を宜しく頼むといって、おいおい泣きながら通過していったという。常には士をかさにきて、苛酷な年貢を取り立てて苛斂誅求(民衆から厳しく税金を取り立てる)を事とした武士階級もいざ戦場に駆り立てられると、この有様でこの当時の武士階級の如何に腐敗、怯懦に陥っていたことか、世は已に武士の封建時代より、資本主義の時代に入っていたのである。

さて、湯沢、増田、大沢、角間川などが次々に同盟軍の手に落ち、八月九日父義効にかわって横手城代となった戸村大学義得は郊外警備のため、午後三時ころ、城を出て安田原まで行った処、沢副総督が仙北に転陣したというので城に帰った。沢副総督の命令で横手に滞陣していた藩士は大曲に退いた。内町、外町とも留守番を残してみな避難した。

真崎兵庫、小鷹狩源太などは、横手城の危急を知り、戸村大学に向かって、わが秋田藩は奥羽諸藩がすべて幕府方の中で大儀によって朝廷方となり、その命を奉ずることになった。故に何事も九條公、沢卿の命に応ずることは君公の思し召しある。だから今沢卿の命によって総軍当地を引き払って仙北に転陣しようとしている。このようなときあなたが城を去るのは、不都合な事ではないから、すぐ御手の人数をまとめられて御退陣なさいとすすめた。このとき大学はまだ十九歳であったがいかに沢卿の命令であっても君公の命令でない以上、この城を去ることは出来ない、わが戸村家は中宗以来この地の城代となって数代である、一戦も交えずして退くことは、なんの顔あって君公にお会い出来ようか、先祖の霊に対しても恥である。私は力の限り戦って力つきたら、城を枕に討ち死にすると答えた。武士としてこれくらい潔い言葉はないと思う。

秋田藩の武勇の士が大学を助けて横手城を死守すれば一ヶ月後の九月十五日には米沢藩が官軍に降伏し、九月二十二日には会津も落城して戦争は終わったのであった。それが待ちきれずにやすやすと横手城を明け渡してしまおうとした味方に大学は怒りを覚えたのではないだろうか、とにかく兵糧も少なく、火縄銃が三十八挺、ミニエル銃が二挺、百匁、五十匁、三十匁玉の銃が各四挺他は弓とか槍のみというわずかな兵器と、わずかな兵のみで城を守ることになったのである。八月十一日真崎兵庫に命じられた中村泰治が小鷹狩源太の手の者を加え高屋五郎左衛門、山県三郎の両隊と共に横手を守るべく大曲からやって来て、自分たちは横手城を守るために応援に来たのであるから、鉄砲方二十名を貸して貰いたいと申し入れた。これに対しわずかな兵で籠城しているので二十名も兵を取られたら城の守備が手薄になるから、申し出には応じられないと答えた。応援の者は城中に武器と兵糧がどれ位あるかと聞いたので、ありのままに答えると、あまりの少なさに驚いて、人数も不足武器と兵糧も乏しく、どうしてこの城が守れるか、お前たちは何をもって戦いどうして城を守ろうとするのかと聞いた。すると、こればかりの武器と兵糧、少人数で城を守れないのはよくわかってる。ただ死力をつくし力つきたときは城と共に討ち死にする覚悟であると答えた。

大学にしてみれば、殿様からお預かりの父祖伝来の城を戦わずして敵の手に渡すくらいなら、城と共に討ち死にした方がよいと思ったのであろう。それならば応援の者もいらないであろうというと、城からはお引き取りになるのは勝手次第と答えたので応援の部隊は怒って立ち去ったという。なんのため応援に来たのかわからない。真崎兵庫に応援に行けと言われたから不承不承にやって来たとしか考えられない。  城中の士の心意気に感じて、できないまでも戦って守りきれなくなったときに退くのが武士ではないだろうか敵と戦う前に武器や兵糧の少ないことに怒って立ち去るとは、大学の潔さにくらべて少なからず卑怯な気がする。

同盟軍の寄せ手は庄内藩の松平甚三郎が一番隊で、上ノ山勢、松山騎兵隊を合わせて、十文字村から本道を大手に向かって進んで来た。同じく酒井吉之丞を二番隊に山形兵と仙台兵を合わせ、浅舞の方から搦手に向かってきた。一番隊は現在の南町三番の岡に陣をおき、二番隊は赤坂から三本柳、八幡などに陣をおいた。

仙台軍は前に書いた通り増田村の方から山伝いに来て、城の後の山に陣を取った。寄せ手の総勢は四千余であったという。そして城中の士は百名足らずであったという。八月十一日午前十一時頃本堂村(平鹿町吉田字本堂・このときは樋の口村の枝郷)の明専寺の住職真量が酒井吉之丞、松平甚三郎両名の署名入りの手紙を城に届けに来た。それによると、このたび出兵したことは佐竹家が白石会議において約束したことに違反したのでその懲罰のための出兵であって、いたずらに人を殺したり家を壊したりして民を苦しめるつもりはない。戸村家では約束を守るつもりであったことは、よくわかっている。しかしいまここで敵対するということは尊皇のためと主家の存亡のためであろうから、このことについては諸藩へ取りなしをするから使者を自分の方へよこして貰いたい戦うばかりは能ではないからすみやかに面会して貰いたい。という情をつくしたものであった。だが大学はこれに対して返事をしなかった。そこで寄せ手では前郷の肝煎り島森六左衛門にふたたび同じ手紙をもたせてよこした。大学はこれに対しても返事をしなかった。ついに午後二時頃から城攻めが始まったのである。

寄せ手は大砲などを打ちながら、野御扶持町や羽黒町を焼き払いつつ進んで来た。城でもこれに応戦し銃砲の轟き、どよめきなどものすごいものであったという。(この戦いを横手市大沢生の小生父竹蔵は六才でこの日は晴れた天気の良い日で鉄砲の音はプスプスと聞こえ、大砲の音はドオンドオンと聞こえ、はるか横手城は幔幕を張り廻していたのを遠目に見たと言っていた)

守備兵の妹尾五郎兵衛は本丸下の帶郭で流れ弾に当たって倒れた。この人は隊力無双の五郎兵衛の子孫である。沼田瀬兵衛も流れ弾で傷んだ。楯の代わりに立てかけた畳も銃痕にささくれ、追っ手の柵も大砲で吹っ飛んだ。城兵の必死の防戦に敵もなやまされたらしいが、そこは多人数の強みで、入れ替わり立ち替わり攻め寄せる。その内に本丸の屋根に砲弾が破裂して燃えあがったので、黒沢惣兵衛に命じて、本丸に火をつけて燃やしてしまったという。

横手城は本格的な天守閣のある城ではなく陣屋、武家屋敷の要塞堅固な程度のものであったので、燃えやすかったのであろう。やがて二の丸の屋上にも火がついたので、大学はこれまでと思い切腹しようとしたが、「戦いはこれきりではありません。ここを立ち退いて、あとの戦いを備えて下さい」と言って、城兵が大学の刀を取り上げ強引に退去をすすめた。午後四時頃だと伝えられる。大学も偉かったが、城に籠もった人達も立派だったと思う。大学は二十人ばかりに守られて、城の背後の稲荷神社の後へ出たところを仙台兵に囲まれたが討ち死にするつもりで、大学自身も二人ばかり斬り捨て、必死に戦った。敵はその勢いにおそれて道を開いたので、その間にそこを落ちのびた。すると又敵が立ち塞がったので、また死にものぐるいで戦う。こうして三度も危ない目に合いながら、見入野まで逃れ、山伝いに仙北郡まで入り、翌八月十二日夜明けごろ、戸村家の領地である高梨村(仙北町高梨)の樫尾久衛門の家に辿り着きここで休憩した。

一方妹尾馬之助、伝蔵父子は館坂(城西町一番、技能センターの前の坂)まで出て烈しく戦って数人をたおしたが、銃弾にあたって戦死、また石川隼人は重傷を負い乍らも数人と斬り結び一人をたおしたのち、その場で切腹した。これは味方の足手まといにならぬためであった。

大学は八月十三日に小杉山(角館町の西)から境村唐松神社の別当宅に宿を取り手の者を集めた。八月十六日に藩主義堯公から大学に久保田に来るようにとお召しがあって、夜九時頃少数の供を連れて出発し、翌八月十七日未明に久保田に着き午前十時に登城した。

義堯公は直に大学を引見し寡兵(少ない兵力のこと)をもって籠城したことは大学のみあらず、その組下の者まで天晴れと感じ入り、「武器の足りない者は兵具方から受け取るよう兵士達も疲れていることだろうから、武器が調うまで休息するようにこのことは皆に申し渡す」とねぎらいの言葉をかけられたという。

この大学も病気に勝てず九月二十日突然発病し、人事不省となり、戸村の手の者は薩州隊長九鬼山惣太の付属隊となるよう命じられた。九月二十四日戸村十太夫義効は永蟄居を許され荘内征討の先鋒になるよう命じられた。九月二十五日に組下の到着を待たずに手兵二十人余りを率いてすぐ出発し、九月二十八日に本荘に宿を取った。この時会津はすでに降伏し、他の諸藩も続々降伏しつつあった。

十月五日総督府は横手に移された。十月八日に佐竹公が横手に来られ光明寺に宿を取った。十月十日南部藩主が総督府に降伏嘆願のため来横し西誓寺に泊まった。

九月九日に官軍は河辺郡椿川新城(現秋田新空港付近)まで退却布陣したが以後攻撃に転ずる。
 慶応四年九月八日???明治と改元
 明治元年九月二十日??天皇京都を発す
 明治元年十月十三日??江戸を東京と改む
 明治元年九月八日???米沢藩官軍に降伏
 明治元年九月十四日??官軍若松城総攻撃
 明治元年九月十五日??仙台藩帰順
 明治元年九月十七日??庄内藩主酒井忠篤は米沢藩を通じて官軍に降伏この日官軍は秋田に於いて反撃に移り、賊軍同盟軍の刈和野本陣を再占領した。
 明治元年九月十九日??会津藩主松平容保は降伏を米沢藩を通じて行う
 明治元年九月二十二日?会津若松城開城
 明治元年九月二十五日?南部藩秋田十二所官軍に降伏申し入れ


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↑タイトルの画像は?
掲示板に投稿された「議事堂周辺の大屋梅」、投稿記事【22】、の写真を元に加工されたものです。

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