ふるさと栄会

外目の歴史(1/4)

小 林 鉄 也プロフィール

 

ページ1: 外目村を通る羽州街道(往還街道)
ページ2: 外目を襲い悩ました飢餓潰のこと
ページ3: 外目村に於ける明治戊辰戦争物語
ページ4: 参照地図

外目村を通る羽州街道(往還街道)
現在国道十三号

外目村の東の沼尻山(字大谷地の丘陵地)の東、大屋寺内地内に面した処に古道と呼ぶ跡がある。その南は菻沼(現在は楢沢貯水池の中に水没)から北は大屋沼までの間約六百米、外目村地所内にある。これは現在の羽州街道が出来るまで、戦国時代以前からの道である。道幅は五米許り下水溝もある。

現在の羽州街道はここより西七百米位の処に南北に走っている。更に北に向かって新藤柳田村等を通り六粁位で横手市の市街地中心に達することが出来る。

この街道は外目本村からは東にあるので、通稱樋ノ口橋の袂から西に向かって三町四十七間(四百米)で行ける。その途中ほぼ中間位の距離をこれ又街道と同方向に奥羽本線が通じる。

街道筋道は字名でいうと、南から隣村醍醐村(現平鹿町)境橋から始まり三ツ塚山を通り右に大谷地字に左に壇森字の間を通り長坂を上って新藤柳田村に至る。この間三ツ塚山の田地の中を通り外目坂にかかり人家が数戸ある。坂を上ると平坦路が百五十米許りで人家二・三戸があり、又坂となって麓に人家が二・三戸があり、楢沢から流れて来る小川に架かる樋の口橋を渡る。この橋の南五十米で東に楢沢、馬鞍部落に通じる道路を分岐する。橋の袂で西に外目本村に向かう。街道を北に向かって進み長坂の下で東に大谷地に行く道路を分けて長坂を上るが、ここまでの記事は終戦前までのことで現在は外目坂の中部より泉山果樹園の中を通り奥羽本線を泉山の突端で立体交叉をして醍醐・十文字方面に通じている。

時日の推移と共に沿道に於いても田甫の中を通る処には人家は一戸もなかったが外目坂と長坂の間では両側の田甫に店舗が出来て、工場が立ったり、外目坂には楢沢共同選果場があり、泉山上にはドライブインもあって往時の面影もない賑やかさだ。 羽州街道は関ヶ原の役で徳川家康が天下を収めるに当たり、佐竹氏を出羽六郡に封じ参勤交代をさせるために開設させたものである。秋田領内の経路は南は院内境目の杉峠(山形県境、当地方では院内峠という)から北は長走境目矢立峠(青森県境)まで六十三里十四町二十三間(約二百四十六.五粁)で領内支配の幹線道路である。

この街道は慶長八年(一、六百三年)有屋峠(山形県境雄勝町役内?最上郡金山町有屋)の山道を閉じて、院内杉峠を開いて以来、開削整備が続けられた。慶長八・九年譜代の重臣を道作奉行とし、街道近辺の郷中を動員し、一騎(上士)を監督に配し、道路工事、架橋、一里塚の設置を急いだことがわかる。しかし羽州街道および脇街道が整備されたのは天和年間(一、六八一?八四年)までの間のことか寛文二年(一、六六二年)に駄賃制札控、天和元年に領中大小道程帳(秋田県庁蔵)同二年十月に駄賃元札之草案、駄賃増札之草案などが定められている。領中大小道程帳は宿駅・一里塚の所在・札場・橋・舟渡し、徒渉河川などが記されているが、院内境目杉峠より二十六町四十間の沓懸に最初の一里塚がある。そこから羽州街道を北上する。

駅場は下院内(本陣)。湯沢町(本陣)岩崎村。横手町(本陣)金沢村、六郷村、大曲村。花館村。神宮寺村。北楢岡村。刈和野村(本陣)淀川村。境村(本陣)和田村、戸嶋村、城下久保田。湊町、大久保村。下虻川村、大川村。一日市村(本陣)鹿渡村(本陣)森岳村。桧山村、鶴形村、飛根村(本陣)荷上場村。小繋村、今泉村、前山村、綴子村(本陣)、川口村、大館町(本陣)釈迦内村白沢山、長走村。陣場平村。

街道の維時、保全は街道筋の村方に負わせた。

明和七年(一、七七〇年)八月の在在見廻勤方大旨に「街道筋道ともに造前有之所者道橋共に往来難渋無之様に心付并街道左右道印松柳漆等植立候様数度被仰付候得共相立兼候間是等茂自然与心付可申所に寄甚出精致取立候所も相見得候間兼而出精致候処者可被申聞候」とあり街道左右の松、柳、漆などの植付を含め、道、橋普請ののことがみられる。

街道には駅場を設け伝馬、人足を備え公用、私用通行者の便宜をはかった。慶長二十年の飯沢村(現羽後町飯沢)の黒印御定書に「伝馬之事物成六拾石に付壱年二,三拾疋此扶持壱疋口付共ニ一日付納弐升宛取りへき事」とみえ駅場、伝馬役は秋田藩が早くから設定したことがわかる。駅場村の負担緩和のためか、また駅場増設のこともあってか(金沢村?金沢中野村)(大曲村?花館村)(神宮寺村?北楢岡村)(刈和野村?境村)(和田村?戸嶋村)はおのおの上り、下り半月勤めとなった。

伝馬・役夫は駅場により異なる。駅場村以外の近村で特定駅場の伝馬役を負う助郷役もあった。宝暦二年(一、七五二年)の御打直品品書上候覚(中沢文書)に平鹿郡上吉田村(現平鹿郡平鹿町)について「御上下の筋海道道所ハ無御座候得共(中略)御上下の節御伝馬の儀は横手寄郷に御座候得共当村に馬一切無之、所々より相頼候故、馬壱疋ニ而湯沢迄壱〆弐百文位、六郷迄は七百文位雇ニ而相勤申候、大方馬数弐拾弐参疋、歩夫三拾八人相詰申候」とみえ、上吉田村は横手駅場の助郷として、参勤、公用上下の伝馬歩夫役を負担したが、村に馬がいないときは金銭で負担することもあった。

街道の領国境目には関所・番所を設け出入の人物、物品を監視した。とくに藩内の南方の上院内村、北部の津軽口長走村には藩初から設けられた。

 佐竹領域支配が整備されて来た。元禄十六年(一、七〇三年)十一月の覚には生保内口、百三段口、を含めて「右四ケ所御関所に右四ケ所の外小道番所と自今以後可申と被仰渡候」とあり、関所と番所を区別した。基幹道路の羽州街道の南の院内口に重臣をあて、北の長走は大館所領にゆだね警固した。関所番所の名は時により境口などと改められるが院内口には文化四年(一、八〇七年)御境口出入調役所を設けた。領内商品流通の発展に伴い陸路移出入商品の増加が反映している。脇街道境口番所にも同じ傾向がみられ、年月未詳の「経済秘録」などによって観ることが出来る。

羽州街道は明治維新以後近代化が進められた。現在秋田以南の羽州街道は(現国道十三号)由利郡から北上した北国道(現国道七号)と秋田市茨島で合し、以北を国道七号として青森県に抜ける。もちろん路面の変更・短縮、バイパス設置などの変化はあるが、羽州街道を規制した地形的要因は除去することが出来ない。明治三十八年(一、九〇五年)ほぼ羽州街道に沿って開通した国鉄奥羽本線もその例外ではない。

羽州街道が大体に於いて村の東部を縦断している外目村であり、街道の維持、保全は街道筋の村方に負わせたとあるように、その受持区域はどこであったか、それは新藤柳田地内の笹崎の処より長坂の下大屋沼よりの潅漑水路橋までの間約六十間か八十間か大体その位の距離と思うが正確な距離は今の処私には解らない。その処が外目村の担当区域であつた。昭和の時代になっても現在の舗装以前の砂利道では、雨が降った時は特に砂利が平鹿堰の砂利取り場より採取した砂利であったため、赤褐色をしており判然と見えて、我が村の先祖の労苦の表れと見ていた。又街道より外目本村の入口袂にかかる橋を樋口橋という。これも樋口村の担当区域内にあったので、この名称がついたと聞かされている。街道の一里塚は外目地内にはなく、横手町内では鍛冶町にあって、次は大屋新町美佐古にあり、その次は醍醐金屋にあつた。今も一里塚として判然と見事に残っているのは湯沢市吹張町にある欅は有名である。

明治時代から昭和までの一里元票は秋田市元票で金沢町の中に十八里票があり、横手中学校(今は横手高校)の前の十九里票、二十里票は横手市山崎の城見坂にあり、二十一里票は栄村持田鈴木由太郎宅前に、二十二里票は醍醐元小学校前、二十三里票は十文字町古内皆瀬川畔に、二十四里票は湯沢市前森公園前、二十五里票は湯沢市愛宕神社下にあった。

又、街道の外目坂と長坂の両側には実に立派な太い松並木が何十本とあり見事であった。

街道の町村標識として明治時代に立てたもの。私の見て解ったのは大正四年か五年頃で栄村境の南、北境に高さ三米位か難しい字で小学校三年位では教わってもいない字で從是北秋田県平鹿郡栄村地内壱里六町何間と醍醐村境の境橋にあって、この傍には同じく醍醐村の從是南となるわけで、栄村北境安田一ノ堰の傍に從是南と横手町の分と二本立っていた。又、旧藩時代か明治になつてからであったか、街道担当受け持ち区域毎に標識木を平鹿郡何村と何間か距離をおいてずらっと立ててあったと私の父親が語っていた。

羽州街道は佐竹藩が封じられた直後に開設されたのであるが、今は解ったことであるが、その前のそれに相当する道路は何処を通っていたのか、大正の末か昭和の始めか青年団長の細川養助氏が、横手町の郷土史家、多分大山順造氏か深沢多市氏か忘れたが、青年団員に講演をしたことがあった。その節の講演で十文字町の十字路は現在の処よりも東に寄ってあったとのことであり、羽州街道に相当する道路は現在の街道の東にあったことになり、外目村の古道はその一部であり、大正の小学生時代受持の土屋先生であったか、昔の国道は大屋沼端を通ったと教えられたし、その後父親と兄との囲炉裏端で語り合っていた時、新町の部落は国道より一町(約110米)ばかりの距離で並んで出来ている不思議のように話をしていたことを聞いたが、その時はそういえばそうだな位にしか考えなかったが、その後羽州街道の由来を糾明するに及んで矢張り新町は昔の往還上に出来た部落で、羽州街道は距離を置いて後から通っているところだ。

昔のその往還は十文字町の東の仁井田羽場で十文字となって麻当開五郎兵ェ野、野中、関合、中篭田の中を通り田甫の中を三島道中の中間を通り馬鞍田甫を過ぎ、浅舞山入会山の龕灯松の下を通り菻沼の上土堤を(現在は楢沢貯水池の真中)通り外目地内の古道を通り大屋沼に至り、沼の中央を通り(これは私は沼の中を通ることに疑問を以っていたが)羽州街道の開削通は慶長八年(一六〇三年)で大屋沼の築堤は元和年間(一六一五年?一六二四年)で約十三年前には古道は廃道になっていたのである。

現在の大屋沼堤防下より大屋寺内字堀ノ内の端を通り大屋新町に至り字美佐古で羽州街道と交叉して堤の中を行き大堤部落を通り婦気部落を過ぎ現在の横手駅横の平城、横手町に至るものであった。

外目村地内の羽州街道に国の測量部の水準点が一基長坂の真中の東側にあり、標高八九.三米で旧栄村では美佐古の処に標高九二.一米が一基と安田原に標高七五.八米があり南の方では大橋に八二.一米、梨の木に標高八六.六米と十文字金兵衛坂下に標高八三.七米と岩崎町に標高八七.七米がある。

街道の松並木は栄村地内では南から外目坂の松並木、長坂の松並木、新町旧栄村役場側西片側にはまばらに杉並木が赤谷地まであつた。赤谷地から安田原まで二粁の間に坂は四ヶ所あって、この間全部両側に松並木があった赤谷地の方から上の坂中の坂下の坂と安田原の坂とにあつた。中の坂には昔松並木の植え付けをする前から有ったという松の木があった。内一本は根本より数本に幹が枝状に別れて生繁り、この木一本で小家屋なら建つのではないかという程の太いものであった。 この街道松並木も戦争中の伐採と道路改修工事等のため今は殆ど伐採して無い。

松並木の藩政時代には沿道農民が田畠作業をする時に何気なく傍らの並木に簑、笠、毛羅等をかけたり仕様ものなら、見付けられるとこっぴどく叱られたという。並木の保護育成には相当気を使ったらしい。

戦後近時街道の改良拡幅全舗装については年代の詳しいことは私には解らないが、近代道路となって車両が輻輳頻繁である。


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↑タイトルの画像は?
掲示板に投稿された「議事堂周辺の大屋梅」、投稿記事【22】、の写真を元に加工されたものです。

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