外目の歴史(2/4)
ページ1: 外目村を通る羽州街道(往還街道)
ページ2: 外目を襲い悩ました飢餓潰のこと
ページ3: 外目村に於ける明治戊辰戦争物語
ページ4: 参照地図
外目を襲い悩ました飢餓潰のこと
飢餓潰とは天候が不順で農作物が不稔であるため、人民(領民)の食糧・年貢の納入が出来ず、社会の経済機構が潰滅となり飢餓、病気等続出して社会不安が一通りでないことである。今日では農作物に対しても肥料にしても、化学肥料があり、水田潅漑の設備、薬剤の撒布等科学的方法に依り、ある程度未然に防止して作物の収穫増収を計るよう努力しているが、これが旧幕府時代から明治中頃までは、全くの天候相手の農業であれば、北海道・青森・岩手の各東部地方では三年に一回、山形・秋田・青森の西部には五年、七年にして冷害に見舞われて、また三年、五年、七年等と確実に来るものでもなく何年も続けて来ることもあり、この場合の悲惨さは東北ばかりでなく、北海道、東北と被害は甚大で日本全体にも及んだ。わけても被害甚大の東北方面では餓死者が何万も出たと記録にある。文久三年生まれの私の父親は巳年、辰年の飢餓潰にはどう苦しんだか話を語り継がれて来たといっていた。横手市の送り盆は後生の人には夏の楽しい催し物として喜んでいたが、これがそのルーツを探れば、何と過る天明年間の飢餓潰での餓死者の霊を慰め弔う行事でもあるのだ。
記録の一端に平鹿郡山内村の三又村では家数六十軒と申し候処、宝暦五年亥の年、飢餓潰後三十軒に罷成候と半分が潰れ家となるほどの被害を受けた。天保四年(一,八三三年)は「当年儀者、先年より覚無之凶作、別而大沢村の儀嶽下之村居故、冷気相進不熟ニ而皆無同様之作毛」とあり、山内の入口にあたる大沢村が甚大な被害であったから奥の村々の被害は推して知るべしだろう。 大正二年の凶作は秋田県だけで年収四十二万石の減収であり、各農家に於いても主食の米飯には大根を細く刻んで、大根糧を入れて食したのである。昭和六年の凶作は春から桜の開花も遅れ、当然秋の稔りも遅れたことであった。横手盆地地帯では左程の減収でもなかったが雄勝郡の山間部の冷涼地帯は相当の打撃であったようである。次の七年は冬季山間、平野部共降雪なく、田地の植え付期になって水不足と旱魃に見舞われ、六月三十日になつても水不足のため平鹿堰掛りの田地は植え付け不能で平鹿堰通し水の人足が必要のため、その方に人足を回すため、小生父故和賀竹蔵の死亡葬式手伝い人夫を半分にして呉れとのことであった。大屋沼貯水池掛りの田甫の植え付けが終わっても、平鹿堰掛りはこの時点で一望植え付け不能の白枯れ田甫であつた。
昭和九年の冷害は昭和六年以上の被害であり、夏季間雨降り続きで私は馬を使っていたので、草刈り、薪を馬の背で運ぶ鞍が雨のため水漏れして天日を見付けては乾かし方をした。又この当時農村救済の道路工事等村落内で行われていたが、山間の馬路は降雨のため悪路となり通行不能となり、別の山道を通り普通の年と違い、道満峠の仕事場の往復を馬鞍道、金掘山道、明沢道等と更え乍ら通行した年も珍しい。九年の冷害については、山間部の被害甚大で出稼ぎ、娘の身売り等後年発行の残酷物語に書かれている通りである。これは昭和の物語であるが、旧幕府時代では救済事業といっても藩に於いて処理をしたのであるが、藩では限りがある。佐竹藩主は九州細川藩主と仲がが好かったので救済米を細川藩より仰いだとの説もある。現運吉氏の三代前の庄右衛門が天保飢饉の際に年齢七才以上の者は腰に「カコベ」(食糧山菜等を入れる篭)を必ず携帯して食糧の収集確保にとの御触れが出て対策をしたと聞く。
天災飢饉は江戸時代を通じて何十回となく起こっている。全国的なものをあげると元和元年(一,六一五年)をはじめとして寛永延宝享保天明天保とそれぞれ数十万人に及ぶ餓死者を出したものがあった。しかし天災や飢饉といってもそれは多くは人災である。すなわち武家封建政治が農民の生活を年貢徴収等によりぎりぎりのところに抑えたことがその天災や飢饉に対する抵抗力を失わせてしまっていたのだ。そのことは天明の飢饉における白河藩や米沢藩と二宮尊徳の桜町を思い浮かべてたらよいであろう。白河藩は松平定信が政治をとり、米沢藩は上杉鷹山が二宮尊徳の桜町をとそれを見ていたのであるが、ここでは対策のよろしきを得て一人の餓死者も出さなかったと言われている。
宝暦五年(一,七五五)南部藩では春より四月までことの外暖かく、五月下旬より東北風が吹き天気が悪く冷気冬の如し。八月一六,七日に大霜降り九月中旬まで不順にて田畑共、立ち枯れとなる。餓死六万人斃馬 二万頭、八戸餓死者七千人、仙台、津軽、秋田、最上、米沢凶作其他九州四国地方は霖雨土用天候不良にて凶作、中国、山陰、北陸等不作。関東、中部地方稍良なり。翌六年南部は気候相当なりしも餓死者斃馬多く不仕付の為減収。
「桜島噴火」宝暦七年奥州飢饉。南部四月中旬より霖雨止まず遂に凶作となる。仙台藩凶作、米沢、最上霖雨大洪水、最上川平水より高き事三丈余(九米)損耗甚大なり。東海道、山陽諸国洪水多し。天明元年(一,七八一年)南部藩不作。天明三年東北地方四月頃より東北風にて極寒の如く冷雨打ち続き暑気なく出穂遅れ八月十七,八日霜降り、同二十七,八,九日暴風雨にて穀稔らず。南部藩、餓死三万人、津軽藩餓死八万七百人、斃馬一万七千二百頭、其他秋田、最上、米沢、仙台、白河等皆大凶作なり。そういう状態はその次の年、たとえ天候が良くても、種籾不足、田畑の荒蕪労力も足りず、飢餓状態が続く、それなのに天明は五年、六年、七年、八年と連続して不作凶作が繰り返され、七年には各地に米騒動が起こっている。寛政に入っても南部藩は元年(一,七八九年)三年、五年、七年(百姓一揆起こる)八年と間をおかぬ凶作。享和は最上の村山に凶作のための百姓一揆が起こり、南部も 春旱魃夏霖雨のため不作。そして文化、文政にも繰り返され、やがて天保の飢饉を迎える。天保四年南部藩五月下旬より霖雨、東北風吹き寒冷にて綿入れを着、六月中旬大霜降り、八月上旬霜あり。穀全く稔らず大凶作、餓死多し、津軽、仙台、秋田、最上、米沢、白河、其他大凶作にて松平陸奥守(仙台藩)以下十四名大名よりの届け出でによれば、其の損耗七十八万二千余石に及べりという。このような年表風を列記しただけで飢餓の状態は察しがつく。しかし具体的には惨状目を被うものがあった。
庄右衛門の昔語りで、外目も永年の飢饉等により馬が三頭しかいなくなり、馬作りの時に桜沢の方に合併して呉れと伯楽にいわれたという。又入会山の道満山にも行けないでいたら、山内平野沢郷より入山の催促が来たという。入会料はその当時三斗入り米一俵であったという。旱魃で田地の水不足で平鹿堰を真人まで水を立てに上がった回数は九回が最高という。現在居住している前村の各屋敷宅地を見るに殆どといってよい程、先住屋敷でありその先住者は飢餓潰等に依り逃散したりの様であり、又五百刈部落の廃村もこれによるものでありましょう。他にも大東亜戦争当時のことも書くべきであったと思う。男は皆戦場にかり出され、おまけに天候も幸せず大雪降りと消雪も遅れ、八十八夜にやっと種を蒔く始末、リンゴの木は実の付いているが不思議なほどであった。
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