ふるさと栄会

わが郷土の歴史(5/7)

柴田秋太郎プロフィール

ページ1外ノ目村(地名の由来) / 観音堂・・外目村
ページ2大谷館(大屋館) / 大屋新町村 / 栄神社
ページ3吉詳山両学寺、神原家 / 新田山光徳寺真宗大谷派 / 大屋寺内村
ページ4正伝寺・・大屋新町村鬼嵐 / 弥左エ門のこと
ページ5: 新藤柳田村 / 鵈鳩(みさご)、みさこ地蔵
ページ6赤谷地 / 八王寺 / 馬場(安田原)
ページ7婦気 大堤 / 楢沢

「新藤柳田村」

「雪の出羽路」に餅田村、新藤柳田村の古名をいう、とあり、今は小字の名に残る持田の名称でここらを呼んだらしい。また、永慶軍記にある「進藤原」とあるのもこの辺を指したものと思う。吉田氏の地名辞典をみると、大屋口今、安田、婦気、外之目等を合わせて栄村と言う。横手の南部にして醍醐に至る間とす。「進藤原」あり。「永慶軍記云々」金沢住役氏金乗坊、密かに横手佐渡守を語らい大将となし、数万の軍兵を率し、すでに中宮助小野寺輝道を討たんとす、中宮助これを聞きて天文二十一年(一五五二)六月横手城に取り懸かり散々攻む、城の内より飯詰と金乗坊一番に駆けだし防ぎ戦う、湯沢勢悉く敗退す、此の時増田、浅舞心替、横手に一味すれば輝道引退くといえども、佐渡守はげしく追駆ければ、小野寺の内に八柏大和守、君の旗をさして手勢三十余人進藤原に控えて、詰め、引詰、散々射かけ主の命に代えて終に討死しけり。と書かれている。古くから、由利、大沢口、浅舞、樋ノ口に、本堂から進(新)藤原、大屋館へと通ずる道があった。持田の古名餅田村の発祥の地新藤は古い歴史の地であることには間違いない。新藤柳田、横手盆地の東端、横手川渓口部の五キロメートル平野部に突き出た丘陵中に位置する。地名は新藤田と柳田の二ヶ村を合併したことによると言う。笹崎、礼塚に、縄文遺跡がある。「近世」新藤柳田村「江戸期?明治二十二年の村名」出羽国平鹿郡の内、秋田藩領。寛永十年柳田村開墾許可の指紙を持つ湯沢給人黒沢左衛門と横手羽黒給人衆の訴訟があった。(政景日記)中世には大屋村に含まれたとみられ、十九世紀にも俗に大屋村と称す(秋田風土記)と言う。大屋寺内村を枝郷にふくみ、柳田村三百五十二石とある。天和年間(一六八一?八三)金屋村百姓助之允による忠進開きもあった。(吉沢家文書)「元禄七郡絵図」では、大屋寺内新田村を分出し、新藤柳田村三百五十二石余と図示。「享保郡邑記」では古名を餅田村と唱えたとあり、宝永七年(一七一〇)に同村へ引き移ったという礼塚村を含め柳田村、新藤村の三枝郷戸数五十一軒、(枝郷分八軒)「享保黒印高帳」の村高五百七十石余。当高五百八十二石余、(内本田三百五十一、本田並二百、新田三十一)明和七年(一七七〇)の堤数十五で、内五つは大堤、「村々堤見分並日記」田の用水には大屋寺内村の大屋沼からも多く受益、(秋田風土記)「寛政村付帳」には親郷醍醐村の寄郷、当高五百八十三石(内蔵分百三十、給分五百七十)と記載。「雪の出羽路」では四十八軒、百八十七人、仮肝煎六左衛門 松之助、馬十一頭とある。「天保郷帳」は、五百八十三石、村鎮守は大日堂(五大尊社)の外、白山社、稲荷社がある。明治十年代に赤坂村、安田村、婦気大堤村、大屋新町村、大屋寺内村、新藤柳田村、外目村、七村で新藤柳田村外六ヶ村組合戸長役場を結成、役場を肝煎六左衛門宅(現当主、照井享資氏)に置いた。

明治二十二年町村制施行により赤坂村は、旭村へ吸収され、あとの六ヶ村が「栄村」(さかえ)としてスタートした。役場はそのまま六左衛門宅であった。

栄小学校明治十九年大屋新町小松原に小学校を建設(旧公民館)、同四十四年森合に小学校を建設、高等科を併設新しい学校制度による教育が始まった。小松原の旧校舎を栄村役場として使用刷ることとなり、六左衛門宅も永年務めた役場の使命を終えた。役場として提供した家は昭和初期解体、新築されたが、その家も昭和五十年代に解体され、近代的建物に変わった。思い出されるのは街道入り口の両側に門柱がわりに植えてあった桜の木である。日中でも木の周辺は薄暗い程の大木であった、それでも春の開花時は見事なもので、花の小山の様であり、通りすがりの人でさえ立ち止まり、眺めて行くという名物桜であつた。その大木も昭和三十年代後半の国道拡幅工事の為伐られる運命になってしまった。

大屋梅の大木その桜から三軒目、伊藤保男氏宅裏にこれまた大屋梅の大木がある。樹齢五百年という。(横手市文化財指定)この梅の木屋敷は、昔寺院跡と古老は言うが定かではない。伊藤家のすじ向かいに大銀杏があった。天を突くという言葉があるが全くその通りで、太さも大人四?五人でやっと抱えるという代物、それにぶどうが絡みついて実がなった時など見事なものであった。阿部さんと言う家の屋敷にあったが通称「銀杏の樹の家」で通っていた。恐らく二百年以上も経っていたであろう、戦時中に伐ったとのこと、今頃まで生い茂っていれば当然文化財ものだったであろうが、それぞれの事情だから致し方のないことだと思います。そこから百メートルばかり横手寄りに大屋川(餅田川)が街道を横断している。この当たりにも旧家が集まっている。旧小学校入り口南角に通称「御本陣」の家がある。もともと鬼嵐の両学寺が別荘として建てたものであり、佐竹氏が参勤交代で江戸出府の折り、大屋寺内村堀江家と交代に休憩所として使用したと言われている。正式に御本陣として借り上げられたのは、両学寺(神原家)の記録によれば嘉永三年(一八五〇)となっているから幕末風雲急を告げている時代であり、以後、佐竹公の江戸出府の記録は無い。「御本陣の家」こと現当主神原永善氏は、「両学寺」(神原家)の分家として十文字開村(ひらき)に住まいした、現当主で九代目である。ところが、二代目か三代目か定かではないが、本家から別荘の留守番を命ぜられ、始めは十文字開村から通っていたが何分にも遠方なので通いきれず、家族揃って引き移り現在に至ったものという。「御本陣の家」も老巧化に勝てず昭和四十年代に解体された。戦前、戦後を通じて、その家屋の研究に訪れた史家は少なくない。それほど立派な文化価値の高い建造物であった。「横手市指定御本陣跡」史跡の標識を見るにつけ、梅の木(大屋梅)とその根本に生い茂るオンコの両古木が往時を偲ぶよすがとなっている。

八十八の石段、神明社神原家の後に小高い森があり、八十八の石段を登り詰めたところに小さな「祠」がある。村人は神明社だと言う。その昔、大屋寺内村、大屋新町村、新藤柳田村の三ヶ村は森林、水利の組合を作った相互の仲である、ところが、争いが起こり(水争いではなかったか)お互い交際を絶つ程であったと言う。しかし、日がたつにつれ、何時とはなしに心も和らぎ、打ち解けたので、三ヶ村の人達がこの森に集まり和合の話し合いをしたという、話もまとまり「神明社」を建立して、名も「和談の森」としたと言われている今に残る昔話である。因みにこの場所は三部落の字界である。この部落の発展は、羽州街道の開削によって成されたことは言うまでもない、新藤、柳田、礼塚からそれぞれ羽州街道へ引き移り、また、他郷から移住したものもいるのであろう。生活する上での必須条件である水は、上町には名水と言われる清水が湧き出ていたし、下町には大屋川の豊富な水があり、人々は水を求めてその周辺へ集まっている。集落は、そこから発展したと言っても過言ではあるまい。藩政時代文政年中(一八一八?二九)の一時期外目村、新藤柳田村の二ヶ村は醍醐村を親郷とし、その枝郷として、その行政区の支配下にあったが明治の大改革により解消した。

羽州街道沿いに集落が形成されてから約三百四十年、先覚の努力が実り今日の発展を見た、ところが、今二十一世紀の新しい高速交通体系に向かって工事が進められ、しかも、その「要」となる「インターチェンジ」が、新藤柳田村の一角であることを考えるとき、羽州街道が開削された元和年中(一六一五?二三)と因果関係はあるまいが、身近な問題として、大きな関心事である。道路は文化のバロメーターであるというが、全くその通りだと思う、秋田と岩手、否、裏日本と表日本を結ぶ高速交通を、どう活用し地域の活性化と発展に寄与するかは、行政と共に住民の大きな今後の課題と言えよう。

八幡村、「村上家系図」照井家と関係のある部分だけを抜書する。○守秀 村上新三郎また、四郎兵衛という、母は久保田の家士助川弥兵衛信忠の娘也。実は新藤柳田村照井弥左エ門一男を養子スといえども、元来岩城伊予守秀隆公御嫡子次郎公早世に依って松平陸奥守吉村公ノ御舎弟御養子也。其時岩城家騒動す、依之我父瓜生要人自害ス、故ニ亀田より浪人せり。照井弥左エ門は元より縁者たるに依って弥左エ門が二男と成り村上家ノ婿と成る。実は岩城右京亮隆泰公ノ浪人という。此の妻ハ家の一女也。共に父の心にかなわざるに依って別家となる。然る所照井弥左エ門家へ引き取り度ク願いに付右別家残りなく弥左エ門方へ引っ越し、九品寺西光院より寺暇を申請ケ、弥左エ門菩提寺大屋村光徳寺檀家となる。依って弥左エ門方より又別家と成りて十年斗(ばかり)新藤柳田村に住せり。しかる処また同村にも住居いたしかね亦候、また村上新右エ門守清方へ召し抱えくれ候ようにと願いに付キ家内残りなく引き取り新右エ門方より又別家といたしさし置きたり、依って四郎兵衛等は大谷村ノ光徳寺也、寛政元酉十二月十一日六十七歳ニシテ死去、法名、釈栄現。 (雪の出羽路)

注「照井家」弥左エ門は、鈴木家文書(現当主鈴木雄太氏)によれば、元文弐年十月(千七百三十六)新藤柳田村「長百姓」(おとなびゃくしょう)と記されているから農民の信望があったものと思われる、また、六左エ門は文化?文政(一八〇四?二九)頃の人で、これまた当時肝煎役を勤めている、こうして見ると照井家も旧家であり、由緒ある家系のようである。

鵈鳩(みさご)、みさこ地蔵、美佐古

新町村を縦断してきた旧羽州街道(東街道)が羽州街道(現国道十三号線)と交差する此処を現在美佐古と呼んでいる。この地に昔から清水が湧き出でており、鵈鳩の清水、往復の西、道の傍にあり。よき寒泉(しみず)なれば、水無月の照りはたくころ往来人の渇きをとどめ、喉をうるほへるよき清水なりさりけれど此の魚鷹(みさご)の名のいかにしてあるか、さる鳥の巣(すかくる)処にもあらず、また汝が鮓(すし)造る岩なんどもあらず。此あたりの田地の名さへ、みながら鵈鳩の字でありける。「雪の出羽路」。その清水が湧いている処に杉の古木があって、一里塚もあったと言われている。そこに地蔵さんが二基建っていた、やや大きい方が「みさこ地蔵」といった。参勤交代の行列が通っている時に見物人の仲に懐妊中の娘が下座礼に遅れたため、無礼討ちになった。それが大屋寺内村堀ノ内の堀江家の娘みさこであつたという。不憫に思った堀江家では、石地蔵を刻み、現地へ建立して弔ってやったという。みさこ地蔵のあるところ誰言うとなくみさこが美佐古と訛って呼ぶようになったのではないだろうかと古老の話である。みさこ地蔵は、清水の傍らに高橋勇氏が祠堂を建立して供養を施している。清水は時代と共に出水が細く往時を偲ぶよすがもないとのことである。

みさこ地蔵に刻まれている法名、瑞岩妙祥信女とあり、ほかに死亡年月日、建立者名等はない。この集落は、明治期に始まったもののようで地名の「美佐古」も、「みさこ地蔵」によるか通称にすぎないと考えられる。親郷の新町村から羽州街道(十三号線)へ出る、左へ曲がれば小松原、右へ向く、左側が中野で右側が新町であり、西へ突き抜ければ中野である。「美佐古」の地名は出てこない、地名辞典にも、戸籍にもなく、通称「美佐古」であり、バス停など堂々と胸を張って「美佐古」である。古老の言う「みさこ地蔵」の怨念か?、菅江真澄の鵈鳩の字か、定かでない。羽州街道(国道十三号線)を美佐古から赤谷地に向かって行く、戦後間もなくにはまだ百年以上を経た松並木が生い茂り、両側に拡がる田園風景を眺めながら歩いたのどかな風情は今想えば隔世の感がある。戦後の住宅事情、社会情勢の変化により、住宅、工場、その他の建造物が建ち並び郡市化が進み、この西側中野地区でも奥羽線沿いは田地であったが、水利の便が悪く畑替わりとなっていたのが、昭和三十年代に宅造され、いまでは六十余戸の住宅団地が形成されている。道路沿いは工場、商社等建ち並びまた和賀ストアーを右折する道路は大屋寺内まで開削された産業道路である。その沿線も中里まで住宅が続き益々市街化の様相が色濃くなってきた。法竜、仏ヶ沢、平林、牛首戸、親郷が新町分と赤谷地に分かれている。実は赤谷地も戸籍上には美佐古と同様に出てこない、通称であるから、婦気大堤分といったほうが適確だろう。


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↑タイトルの画像は?
掲示板に投稿された「議事堂周辺の大屋梅」、投稿記事【22】、の写真を元に加工されたものです。

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