ふるさと栄会

わが郷土の歴史(7/7)

柴田秋太郎プロフィール

ページ1外ノ目村(地名の由来) / 観音堂・・外目村
ページ2大谷館(大屋館) / 大屋新町村 / 栄神社
ページ3吉詳山両学寺、神原家 / 新田山光徳寺真宗大谷派 / 大屋寺内村
ページ4正伝寺・・大屋新町村鬼嵐 / 弥左エ門のこと
ページ5新藤柳田村 / 鵈鳩(みさご)、みさこ地蔵
ページ6赤谷地 / 八王寺 / 馬場(安田原)
ページ7: 婦気 大堤 / 楢沢

「婦気 大堤」

横手市栄婦気、仙北村高梨冨慶、大曲市橋本字婦気、仙北郡払田字婦気、雄物川町南形字大布気谷地、大曲市福田字豊後谷地、フケは深田や低湿地の意、北奥羽や東瀬戸に多い。冨家、福家、布下、布毛、湫田、吹井とも書く。原地形は排水の不十分な沼沢地であったが、人口圧によって開墾すれば田になる可能性のある湿地を深田といった。横手市栄の婦気も低湿地で洪水となれば大屋の里から婦気に向かって流れる位置に当たる。昔は沼沢らしく一段と低地になったところもある。中部地方ではフケの地形をクケと呼び湫の字を当てている。腰までぬかって田植えする深田をフケ田ともいうが、秋田市手形にある。新潟県では昔の潟湖のほとりにある里に見られる。横手市栄、山内村、西仙北町今泉に堤がある。開墾当時の順序は、山麓、山間盆地から平地を開墾してきたが、谷や小野についで、近世農民に堤を築いて溜池を作り、平地に看目した。横手市南郊の堤は佐竹義宣の代に八口兵助という人が、今の三枚橋の八ノ口に住んでいたが、墨の黒という名馬を献上、続いて山内を開墾その功を認められて現在地を開墾したという田クボ沼、大沼、小沼の三つがあり、タメ池を堤といい、堤防も堤という。山内の各地にある雨池も堤をさす。」

婦気大堤は横手盆地の東端、横手川渓口部の南方3Kmk平坦地に位置し、西に標高百㍍の岳陵を負う。地名は婦気と大堤の二ヶ村を合したことによるもので由来は前記の通りである。「近世」江戸期?明治二十二年の村名、出羽国平鹿郡のうち、秋田藩領、「正保国絵図」(元禄七郡絵図)には村名は見えず、安田新田村と赤坂新田のうちに含まれていたと見られる。元禄三年の証文に「横手分婦気、大堤、安田三村」と村名が記されるが(吉沢文書)婦気、大堤両村はともに枝郷扱いであった。宝永?享保年間に肝煎設置の黒印村となり、「享保郡邑記」では野中村を枝郷として、戸数二七軒(うち枝郷分三軒)「享保黒印高帳」の村高三五一石、当高二九六石余(うち本田一五〇石)、(本田並六六石)(新田八〇石)他村との入会堤が多く、明和七年の堤数七、(村々堤見分並日記)「寛政村附帳」には親郷横手町の寄郷、当高二九二石、(うち蔵分四、給分二八八)「秋田風土記」には婦気大堤新田村三〇軒とある。「天保郷帳」は二九七石、田窪沼、大沼、小沼の三ヶ所の沼は八〇石の田地の用水という。(雪の出羽路)では三二軒、人員一七八人(肝煎小右衛門)馬二五頭と記載。

天保期頃の横手川壱之堰からの水掛高は一四八石余、(吉沢家文書)村鎮守は稲荷社、(別当は大屋新町村修験両学寺)明治十年代に赤坂村、安田村、大屋新町村、大屋寺内村、新藤柳田村、外目村の六ヶ所と連合、同二十二年平鹿郡栄村の大字となる。その直前の戸数四一。明治二二年?現在の大字名はじめ栄村、昭和二六年からは町村合併により横手市の大字となる。前記の八ツ口兵助について菅江真澄は下記のように記している。

○八ツ口兵助はそのむかしは前郷村の八ツ口三枚橋という処にありし家也。国守義宣公の御代には墨という名馬を献り、また新墾功ありしこと公よりの証文にも見えたり。今は大堤の兵助とてその後なおあり。その末とは菅原久之助国道百七号線が十三号線と安田地区内で分かれて婦気を横断して赤坂へ抜ける、もともと東街道(旧羽州街道)が大屋新町村から大堤、婦気、横手(三枚橋)へと通っていた。現在で言えば百七号線を横断する形である。昔から交通には恵まれていた集落ではあるが、昭和四〇年代の百七号線バイパスは特筆すべき出来事といえよう。東街道?赤坂街道?百七号線バイパスを中心に住宅が建ち並び三十戸足らずの集落が数倍にふくれあがり主格転倒の形である。大堤も横手南中学校の通学道路(昭和五〇年代開通)により宅地化が次第に押し寄せてきた。婦気方面からも同じことがいえる。しかしこれからが大事である。赤坂運動公園、ふる里村、田久保沼周辺の整備等々、横手南道路の供用開始と相まって、安田、婦気大堤沿線へ大手資本の進出がいまからささやかれている今日この頃である。土地(田地)がやがて埋め尽くされる日もそんなに遠くはあるまい、そんな予感におそわれる。安田の項で二十一世紀に向かって、如何にして地域を活性化させるかということと、行政と住民の協力がなくしては何事も成し得ないと説いたが、今言われている民間活力、いわゆる民間資本の導入もまたその方法の一つであることを忘れてはなるまい。

「楢沢」

「楢沢の由来について」と題して書き残した古老がいる。それは昭和四十二年六月とあり、既に故人となられたが貴重な文書なのでそのまま載せてご参考に供したい。

わが楢沢は何年前に開かれたかよくわからなぬが、今から約六七百年以前だろうと思う。それは、今の国道ができる前、仙台の方から奥羽山脈を越え小安を通り稲庭、川連、東福寺、そして大倉峠を越えて真人へ出、沢口、亀田、明沢、馬鞍、楢沢、寺内、新町、美佐古、大堤、婦気を通って横手へ出たということである。小安稲庭のほうは、八百年もなるということである(また千二百年ともいう)からそれから推測して順序に開けてきたとしても六七百年はなると思う。元の道筋は今の国道十三号線(羽州街道)ができる前の羽州街道(東街道)で、今の国道は徳川幕府時代、今から約三百六,七拾年前にできた新道である。やはり、元の道筋も国道であったと思う。昔は山岸(やまね)づたいに通ったものである。

前記の通り元の道路は最も重要な道路と思うが、はたしてその道は秋田県で一番早くから通っていたかそれは疑問である。東北地方に順序に開けてくるには東海岸(太平洋岸)から開けてきたため今のように福島から山形?秋田と国道のない以前にはやはり仙台のほうから越えて秋田県に入ったのでその道筋も数々あったようだ。また東成瀬村須川岳を越えて真人へ出たとか、おなじ東成瀬の沢でも岩井川から分かれて須川の反対、左に入って焼石岳をこえてきたとか、数々の道筋があるからどの道が秋田との連絡に一番早くできたのか不明である。

昔は山嶽を越え山根ずたいに歩いたものだし、文化も山の上から開けたものと思う。それは焼石岳にはお寺があって、いま尚その跡は勿論建物の材料さえ残っているということである。また焼石岳は時尚、自照ともいっているそうだが時尚はお寺の和尚のことと思う。自照は高山なので朝日が自ら照らすという意ではないかと思う。以上序の部分を記したが、楢沢集落は馬鞍村と大屋村の狭間にあり、双方とも中世末期に食邑千貫の地であった。はじめは馬鞍村の支配下にあったものと思われる。また、永慶軍記三二巻に、馬鞍村の麓邑に石田坂氏あり、鮭登(さけのぶ)典膳が郎党高橋弟五郎同弟三郎一陣に乗り出す云々。これは真室川城(山形)主鮭登典膳で馬鞍城を攻めたときのことである。城中に石田坂右エ門二郎とて鉄砲の上手ありしが、物のすきより忍び寄り、堀越に動と打つ。無残や弟五郎が胸板を打ち抜かれ馬より落下せり。弟五郎馬より飛び降り兄を背負い掛け帰らんとする処を、石田坂、また鉄砲にて打ちければこんどは兄弟ともに打ち抜かれ遂にそこにて討死せり云々とある。

石田坂は麓村の北なる山陰松原山の内にして、「亀井沢」(兎沢)などといえるところ大谷路にて、昔は家居もありて石田坂右エ門二郎も住みたり。又石田坂に勘兵衛、和右衛門とて聞こえし者ありしがその和右衛門といえる後(すえ)はなし。勘兵衛が未葉(のち)は与右衛門といって麓村に今在(すめ)り、石田坂右エ門二郎が後は絶(なき)にや、与右エ門は右エ門二郎が末にあらざらんなるよしもいえり。麓村の北亀井沢、兎沢とは楢沢集落と馬鞍村の境界にある楢沢分つまり横手市平鹿町の町村界である。兎沢も同じ地点の平地の部分である。石田坂は大谷路とあるように大谷寺内村へ越えるちょっとした峠を指したもので現在も石田坂と呼称している。亀井沢は与右エ門の姓が付けられたものだといわれる。はじめ石田坂に住んでいたのが故あって亀井沢へ移りそれから麓村(現馬鞍)へ移ったものと言われている。(現当主亀井沢秀夫氏)石田坂氏はやはり不明であるが中世には楢沢石田坂に居をかまえていたことだけは間違いないようだ。また旧家で作右エ門家がある。古記録が残されていないので詳細はわからないが古老の記録をたどるほかに手だてはない。その記録によれば作右エ門は一番古いと思われる。それは人間の住みよい環境に恵まれた場所に家を建てた。(泉は湧くし、家は南面している)また条件よい南側に土地を家の下から続いて何千刈りの田地がある。山林はまた家の後から続いて何町歩か何十町歩もある。全盛期には楢沢全地域の三分の二ぐらいを占めていたという。作右エ門はいつ何処から来たかということは、はっきりわからないが元の国道(東街道)筋に順序にきたとすれば馬鞍の次に開けたことだから五六百年から七八百年になると思う。旧家であることは家の後のブナの木、氏神山神様の老松をみても推察される。このブナや松は比較するものもないが、国道(羽州街道)の松並木、戦前戦後を通じて伐採されたが、羽州街道開削当時元和二年(一六一六)に植えられたという。それに比較すれば五六百年はなると思われる。この古老の言うとおり老松、それにブナの大木は一見して然るべきと思う。ブナは家の後ろにあり、五本、先ず根張りの素晴らしさは見る者をして驚嘆の境地に追いやる。家の後ろにあるとは近在では珍しい天然記念物である。楢沢の地名について古い記録によれば、楢の木が多い、山沢である処から楢沢になったとある。当時の家員は四戸(江戸時代前期)「天明九酉正月廿日平鹿郡大屋寺内村御検地野帳之写」楢沢村分によると分家等により家員も八戸と増えている。それに馬鞍郷から別れて寺内村の支配となっている。「注天明は八年で終わっているので検地帳に天明九年酉正月廿日とあるは寛政一年(一七八九)が正確と考えられる」また慶応四年(一八六八)戊辰七月、戊辰戦争について楢沢及び周辺の状況について詳しく書き残した文書がありつぎに記して置く。

「慶応四年戊辰七月二七日軍ニ而院内口ヲ破レ八月二日敵ハ横堀迄三百人程相見得候、同二日伴楢沢江、長州之侍五拾人程泊、官軍勢之指図ニ而、西ハ車長根ヨリ外之目山、馬鞍山、東ハ土万長根迄、大場築立、同三日楢沢ヨリ侍、馬鞍行、同三日官軍楢沢江、三百程参リ昼宿被仰付同三日伴侍百人程、楢沢泊まり同四日伴逗留致、五日之朝増田ニ参り同五日新庄之侍百五十人程参り、夜飯上がり、急ぎ御用ニ而其伴ニ相立ち同五日之伴湯沢焼ケ同八日岩崎、柳原之合戦ニ而石河原焼、八日之伴新庄ノ侍上下三人楢沢ニ泊リ、五日小安焼ケ、滝之沢、八ツ面之合戦、同九日車長根ヨリ土万迄之合戦二而亀田、明沢焼ケ釜之川、無残焼ケ、三嶋ヨリ、上下醍醐焼ケ、道川無残焼ケ、柳餅、田中、下海道之茶屋焼ケ九日伴ヨリ十日朝迄、当国之侍、官軍勢横手町ニ引き揚げ同十一日敵ハ横手ニ参リ御城様ト之合戦相成リ候而六ツ時過ニ致シ内町十一日之七ツ時ヨリ焼ケ始め同十三日迄焼ケ当町モ焼ケ十三日敵之侍、町ニ休ミ内町見根、分取致シ野林迄攻メ十三日田村合戦、十四日落合、角間川合戦、敵ハ二百人程斗参リ百三十人程切ラレ残り七十人ハ浅舞ニ引き揚げ九月十八日敵ハ引き揚げ大屋新町寺内、江夫二十人余楢沢ニ詰、侍之宿ハ楢沢、吉十郎、伊右衛門、藤右衛門、作右衛門ト四軒ニ泊リ、佐吉ニ江夫ハ泊リ、楢沢ヨリ早籠出ル誠ニ大騒ギニ相成候」文中の吉十郎は現当主高橋克氏。伊右衛門、高橋貞助氏。藤右衛門、高橋竹治氏。作右衛門は高橋作右衛門氏。佐吉は高橋活自氏である。当時を知る上での貴重な資料と思考するもので戊辰戦争から百二十年を経過した今日でも往時が偲ばれる。

やがて時は移り昭和初期ともなれば家員も拾戸を越えた。ところが昭和拾年吉田村、田根森村(現大雄村)の田地潅漑用水を外目村田地用水溜池菻(がつぎ)沼(現楢沢沼)に求め県補助で県営工事が施工されることに決定した。沼はもともと外目村の潅漑用水溜池で明和年中(一七六五)に調査した「村々堤見分並日記」に詳細に記録されている。築堤時は定かでないが、二百五十六年は経っているであろう。その上部は全部楢沢集落の田地及び畑であり田地の余水は自然に溜池へ入ってくるから溜池である。その工事によって被害を受けるのは楢沢が大半で、金屋村も畑の一部分が組み込まれ集落の田地の大半が他村のために自分達には何のメリットもなく沼底に沈んでしまうという村始まって以来の大事件である。何回となく反対陳情をしたが無駄だったと古老は当時を振り返る。農地の大半を失った農民は小作の小百姓である。いささかの補償金を手に途方に暮れる者もいたという。築堤工事中は人夫として働く人も多く見られた。いまのように機動力がある訳でもなく、全く人間の力でトロッコを押し、モッコをかつぎ昔ながらの工法で土堤楢沢沼が昭和十四年に完成された。楢沢集落の人々は用地買収後から将来へ生き残りの展望を開くため果樹栽培に生命を賭けた。

また地名の由来となった楢の林も生きるためには伐採も止むなし。片っ端からリンゴ園と変わって行った。前途に洋々たる希望が見えてきた矢先、軍部は着々と大陸への侵略戦争を続け、遂に昭和十六年米英と開戦することになり、国民はどん底の戦いを強いられた。いかに小集落とはいえ楢沢もそれなりの苦しみを身をもって体験した。昭和二十年終戦を迎え、リンゴの唄は楢沢のために作られたような明るい夜明けを迎えた。応召者も復員し、果樹園も活気づき昭和三十年代に入り、国道十三号線沿いに外目三ツ塚山に用地取得、冷蔵庫、果実共選場を建設、平鹿果樹農協の傘下となり果樹選果冷凍、出荷を開始した。

昭和四十三年十一月二十三日第七回全国農業祭園芸部門で「天皇賞」を東京日比谷公会堂の晴れの受賞式で受賞の栄誉に輝いている。そして五十年代に入り、冷蔵施設も手狭となったため増設、六万箱の収容能力をもった低温施設を完成した。また選果場も拡幅、選果機も最新鋭のものを取り付けて能率増進をはかっている。

農事組合法人楢沢果樹組合は近隣諸集落民の協力を得て業務が成り立っているであろうがもともとは、楢沢集落十五戸の一枚岩の団結によるスタートであり、また才覚のリーダーによる正確な見通しと組合員の努力が今日の大成となつたものである。来るべき牛肉、オレンジの輸入自由化は果樹生産農家にとって大きな試練ではなかろうか、楢沢果樹組合にとってもさけて通れない如何にしてクリヤーするか、それは九十年代の大きな課題となろう。「平鹿郡外野目村物成并諸役相定條々」この文書は秋田藩で元禄十一年(一六九八)三代義処(よしずみ)のときに藩内の田地を検地した。それにもとづいて物成(税金)諸役(税に関係のあるもの)改正した。

そして四代義格(よしただ)の宝永二年(一七〇五)十一月に藩の隅々まで行き亘るように、村々の肝煎役に渡されたものである。義処公の代に通達されるべきだつたのが参勤交代の途中、横手で急病で倒れ急死されたため、その子の義格の代に通達されることとなったものという。文書の内容は倹約を旨として働きこの定めを守るようとの意であるが物成は決して安いものではないように思える。当時四百五十一石七斗一升の収穫に対して、弐百七拾石六斗六升余も納入しているから半分以上である。それでも黙々として働いていたであろう百姓の姿が偲ばれる。何れにせよこの文書は佐竹氏四代義格公の黒印があり黒印御定書ともいえよう貴重な文書である。

                                  終わり


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↑タイトルの画像は?
掲示板に投稿された「議事堂周辺の大屋梅」、投稿記事【22】、の写真を元に加工されたものです。

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