大屋郷土誌
藤原久左衛門 識( プロフィール) (笹山晴生 解読・編集)
維新前に於ける領主領域の変遷、等 / 行政区劃及び事蹟変遷 / 教育・学校の沿革 / 神社及び神道 / 寺院其他 / 神官 / 修験、両学寺の由来 / 両学寺家蔵は如左 / 正伝寺の沿革 / 光徳寺の沿革 / 同寺伝来の宝物 / 太子堂の沿革、栄神社と改称したる迄 / 山舘の沿革 / 長谷の沿革 / 大谷沼の由来 / 大屋新町の沿革 / 名僧、阿部梵随 / 堀江治兵衛家譜
○ 維新前に於ける領主・領域の変遷、石高其他主なる事項
維新前に於ける当村は、領主・領域とも、旧主佐竹義宣候秋田御遷封以来何等の変遷なく、村民は能く其仁政に浴し、恩沢に潤い、共同一致、風波紛擾(ふんじょう)なく平穏無事に生存せり。
当村其当時の石高凡そ二千七百石。山林約五百町歩、原野百余町歩を有せり。(中略)
○ 行政区劃及び事蹟変遷
明治七年頃までは平鹿郡第六区二小区の管轄にして、其後赤坂・安田・大屋両村・婦気大堤・新藤柳田・外ノ目等の七部落併合して一村となれり。其後明治九年頃ならん、赤坂を除き六部落を組織して、新藤柳田組合役場となりて、新藤柳田村に戸長役場を開設したり。戸長には佐川虎之助・木村文十郎・菊地節三(以上横手出身)・河村隆昌・藤原久左衛門就任せり。
亦其後明治二十二年中、栄村と改称して、戸沢盛徳・石山直一郎・柴田熊太郎・泉谷巳之松・石川常四郎・阿部由蔵・冨岡徳太郎・石山英二・滑川亀松・河村謙吉・現職太田今松に至れり。
○ 教育 学校の沿革
明治維新前、大屋新町字鬼嵐に神原永眉、並に新藤柳田に正木惣十郎の二氏、寺子屋を設け、専ら読方・書方・珠算等を教授し、通学者各四十名ありと云ふ。(中略)
明治七年三月五日に至り、大屋新町正伝寺内に学校を創設す。大屋学校と称す。同十年五月十日、正伝寺門前の畑地に大屋学校を新設せり。同十二年十一月十五日、新藤柳田十番地片野政五郎宅内に新たに一校を開設して、余力学校と称す。然るに同十九年中、大屋新町字小松原(現在村役場箇所)に大屋学校を移転して増築をなす。同時に余力学校を併合せり。
同二十二年四月より尋常を廃して簡易科を置くなれど、同二十五年四月より校令実施と共に尋常科となる。同三十八年六月二十二日、修業年限二ヶ年の高等科を併置せしが、同四十一年四月一日、法令改正の結果、尋常修業年限六ヶ年となりしに、因り、更に修業年限二ヶ年の高等科を併置し、同四十四年九月一日、大屋寺内字長谷下・大屋新町字堂ノ前、俗称森合(現所)に新築し、其後二回の増築を経て今日の盛況に至れり。
因みに記す。現職職員十九名・児童七百六十四名。
○ 神社及び神道
神道
神道は一般に伊勢大社・出雲大社を尊崇せり。
神社
神社は産神と称して一部落に一社づつあり。外ノ目には神明神社、新藤柳田には新藤神社、大屋新町には大谷神社、寺内には諏訪神社、婦気大堤には稲荷神社等なり。後に大正二年中、各神祠を新町大谷神社に合社して、栄神社と改称す。
○ 寺院其他
曹洞宗正伝寺・真宗光徳寺、其他修験両学寺にして、往昔より他の宗門なし。
○ 神官
時に両学寺第十三世永慶、俗称広雄。当代に於いて明治三年より権少講義、即ち神官となれり。
前記代より明治二十五年第十四世を経て、第十五世、現在神官を継続せり。
○ 修験、両学寺の由来
吉祥山両学寺の鼻祖は、陸奥国胆沢郡水沢の士、俗姓酒水左近とて剛勇の武士なりしが、浮浪の身となり、薙髪して出家となり、諸国修行の心懸にて、永禄三年庚申春、国を退きぬ。然し其国に於て寺久保兵法の一派を究めたること、、其伝法の一巻にあり。斯くして出羽国平鹿郡大谷の郷に来たりし頃、小野寺氏の臣、城主日野備中守殿の帰依に拠り、此地に住居したり。城主、山王宮に宮林の寄付ありて其別当職を命ぜられたりしかば、累世連綿として継続したり。然るに小野寺氏没落後、日野氏も没亡し、其の跡を山舘と申して、当寺にて監守したり。当寺の門の蘭額は古柵の門の株貫にて、□桂を以て作り、丸の内橘の家紋ありしを、近き世の木匠等が心なくも削り落としたと云ふ。
開祖、 快永(法印)天正三年十一月十五日遷化す(今年迄三百六十四年なり)
二世、 永栄
三世、 永易
四世、 永養
五世、 永勇
六世、 永山
七世、 永順
八世、 永峯
当代天明年中、公儀より御本田高十石拝領。御朱印頂戴。
九世、 永林
十世、 永鑁(えいばん)
当代寛政年中、新田高五十石拝領。御朱印頂戴。
当寺先年迄葬斎執行せし寺なりしが、中古中絶して、寛政三年願上げ、古来の通りに仰付けられたり。
十一世、 永隆
十二世、 永眉
当氏は聡明頴悟、度量宏大にして、小さかりし時に、嘗て怒色を露はしたることなし。十七歳の頃、其宗の蘊奥(うんおう)を究めし其宗の本山たる京都三法印宮に到り、修学すること十三年間にして帰郷せり。
嘉永年中、国主佐竹公の御帰依に拠り祈祷所の一に加えられ、御武運長久の御加持祈祷執行仰付けられ、禄高三十石拝載。御朱印拝載。国内全宗の首領に任ぜられ、春秋二回、国内同宗の修験を太子堂(今栄神社の境内)に招集し、同処に於いて柴燈火護摩を焚き、大般若経を転読し、以て国家鎮護の祈祷を為せり。
因に記す。同人は品行方正にして、人に接するに慇懃(いんぎん)にして貴賤貧富の隔てなく、胸中些(いささか)の府城を築かず。飽くまで感化薫陶せざれば止まざるの風あり。是を以て祈祷を仰ぐ者、常に群集す。又、うちには国内同宗の宗徒、来たりて教を受くる者多く、傍ら近郷の児童等に普通学を教授して倦まざりしと云ふ。
十三世、 永慶。俗称広雄
当代に於いて、明治三年より権少講義、即ち神官となれり。
明治二十五年八月二十五日、寿齢六十四歳にて逝去す。衆人皆其の死を惜めり。
十四世、 通称良蔵。神官
十五世、 現代良之助。神官
○ 両学寺家蔵は如左
一、 法華経寿量品一巻
巻末に「明応八年己未(今より四百四十年前)三月二十五日平右衛門尉重俊持行之」と見え、又此の経の裡の方に、別人の筆として、「武蔵国住人平右衛門重俊」とありしと云へり。
一、 三尊の釈迦無尼仏、十六の阿羅漢(古画)
絵仏師の誰人なるわ知らず。然し其絶妙なること目を驚かすと。或いは云ふ。明兆の画ならんと。或いは云ふ。草書にて「玄」と書しあるを見れば玄沢の筆ならんと。玄沢は明応の頃の人にて、大和国菩提山の僧なりと云へり。
一, 大般若経全部冊
両学寺第十三世時代に神官となりたる時に、正伝寺第十九世禅山寛随和尚時代、明治七年頃に双寺申合を以て授受・譲渡となりたると聞きぬなり。
○ 正伝寺の沿革
曹洞宗正伝寺は、往昔は宮城・秋田両国の堺、山脉(さんみゃく)重畳の深山、人家を距ること三里余、一名三ツ森岳、又は時宗山とも云ふ、其絶頂に一庵を結って道場と為し、三観仏乗に身を曝し、苦行の僧呂あり。何国の者なるや詳ならず。其の名、行海・性海・大海と云ふなり。延徳・明応(今年前四百四十九年)の頃の由、其庵室を山内、上黒沢に移し、以て四教円融の道を専修せるものなりと云ふ。
然るに後柏原帝の御宇に当たり、文亀・永正年中(今年前四百三十八年)、偶々相模国小田原、海蔵寺の三世大洲梵守の英哲には、一宗弘通に力を尽くして、辺鄙(へんぴ)の群類甘露の法雨を灑し、巡錫の縁に逢ひ、三僧、到来の大師に遭たるを喜び、随身し、三国伝来の観音の銅仏、中将姫が蓮絲にて織りたる曼陀羅、聖徳太子の木像の三信仰仏を笈に納めて修行せりと云ふ。
銅仏の観音は正伝寺の宝物として現存す。又、曼陀羅は上黒沢に在り。聖徳太子の木像は大谷新町の鎮守社に今存在す。大洲梵守師、此の三僧と力を戮(あわ)せて正伝寺を開基して、祝融山と号す。
焉(いずく)に奇瑞(きずい)あり。寺建営の計画中、梵守の夢に、白山神、獅子の背に端座し来たり、示言して、宜しく此の一山にして止むべからず、外三寺も創くべしと云ふ。不思議の事なり。依って告命の如く行へば、事必ず意の如く成ると。茲(ここ)に於いて全く白山神の擁護に由るものの如しと云ふ。其当時、寺内長谷と云ふ処に在って、観音寺と名称せりと云ふ(茲に理由あるならん)。尓来(じらい)火災に罹り、幾度か再建を経て現寺となれり。此間四百有余年に亘れり。寺の境内に小さき祠を建て白山を祭り、宙神堂と云ふ。其の獅子を模造して今尚安置す。
当寺の十世に智舜と云ふ名僧あり。戒律堅固の聞へ世に高く、国主佐竹公御帰依あり、寺領高三十石拝領し、国主歴代の追福回向を修す。明治四年、右寺領御廃止となりたり。
因みに云ふ。祝融山とは、祝は祭りなり。融は明なり。神を饗応するの辞なり。「史記」楚世家の註にあり。又祝融は神名なり。顓頊(せんぎょく)の子黎を火官としたるより、火の司々、「佐伝」の註にあり。又唐土三十六峰禅山の一名移唱せりとも云ふ碑也。
歴代和尚を掲ぐるに、
小田原海蔵寺三世
当寺開山、大洲梵守 大永五年閏八月二十四日示寂(今年前四百三十一年□なり)
二世、 通庵英徹 享禄二年八月二十一日示寂
三世、 清岩本雲 天和二年十一月六日示寂
〈二世示寂との間に一五三年の開きがある〉
四世、 別山本徹 貞享三年十二月二十二日示寂
五世、 湖山用呑 元禄二年十月十六日示寂
六世、 機庵高全 宝永四年八月一日示寂
七世、 日峰大暎 享保四年十一月六日示寂
八世、 大巌竜泉 宝暦元年十月二十九日示寂
九世、 日舜義光 寛延三年八月廿三日示寂
十世、 一箭智舜 寛政八年六月三日示寂
十一世、 徳翁密鄰 寛政九年九月二十六日示寂
十二世、 天厳運長 文化九年十一月八日示寂
十三世、 大勇万国 文化十二年四月八日示寂
十四世、 大達亮禅 文化十四年十二月廿九日示寂
十五世、 禅栄玄高
十六世、 禅教機徹
十七世、 孝順教隋
十八世、 祖宗賢翁
十九世、 禅山寛随
廿世、 随意開檗南山一乗
随意開檗は一等法地より随意地に寺格昇等したることなり。
廿一世、関山琳乗。現代
○ 光徳寺の沿革
大谷村新田光徳寺は、東本願寺御真末也。新田光徳寺と云ふは、新田山と謂ふが如し。開創釈円祐。姓は新田治右衛門尉興徳と云ふ。新田義貞の三男義宗二男新田治右衛門義斉、始めて陸奥国和賀郡黒沢尻村に住居、義斉の嫡男の代に相模国に移り住んで、元斉嫡男興徳、即ち此円祐なり。然るに文正・応仁の世は五畿七道大に乱れしかば、一族のやがては足利家の為め滅亡なると鑑定し、嫡子藤右衛門尉と共に薙髪、染衣の発心ありて、本山八世蓮如上人の御弟子になって、興徳の法号を円祐と給われり。亦た藤右衛門正乗は、実名最も浄土真宗の法衣にに適った名なりとて、諱(き)を以て正乗と呼ばせ給へり。斯くして本山九世実如上人に仕へ奉り、円祐再び陸奥に下り、弘法の為め、古き因縁を以て黒沢尻に至り、先祖伝来の名号を本尊す。一宇を草創、自ら諱の二字を付て寺号を興徳寺と云ふ。文亀三年葵二月十七日、寿九十歳にして其地に遷化、法号を実如上人の御真筆なり。
開山、 法名 釈円祐
文亀三年二月十七日
釈実如 御花印
二世、 正乗 大永六年三月十六日遷化
円祐の嫡男。俗名藤右衛門と云ふ。
当代、実如上人より大幅の一軸阿弥陀仏の画像を拝領し、斯くして黒沢尻に下向して寺務相続せり。画像の御裡書は実如上人五十八歳の真翰なり。亦た上人より「興」の字を「光」の字に改め給いたるなり。斯くして永正十六年己卯(今年前四百二十年)、飢饉の時、黒沢尻を出て出羽国平鹿郡馬鞍村の上ノ台と云ふ処に移り、大永六年(今年前四百十三年)三月十六日遷化せり。
三世、 浄宗 文禄元年八月三日遷化
正乗の嫡男。次郎右衛門は後に徳兵衛に改め、亦た市右衛門と云ふ。
当代、本山第十世澄如上人より小軸の阿弥陀仏の画像拝領せり。
四世、 浄慶 慶長六年三月二十日遷化
五世、 真担 元和元年正月三日遷化
六世、 浄徳 寛永二年十一月九日遷化
七世、 永玄 寛永九年十月十日遷化
八世、 乗顓 寛文五年四月十五日遷化
九世、 浄玄 貞享二年六月十三日遷化
十世、 祐心 寛保 年十二月十三日遷化
十一世、了空 延享四年二月十三日遷化
十二世、義琳 天明四年四月十五日遷化
当代、元文五年、佐竹淡路殿より高五十石拝領せり。此高、後に御禄高減少の節、御割合を以て引き上げに成りぬ。右残高、明和五年中、又た御指上高相成、其節御屋敷へ無残返上。右高五石、永代寄附に付け置かれ、唯今取替へ高五石なり。
宝暦十二年午歳春(今年前百七十七年)、改派寺の儀に付き御内に蒙り、上京を仰せられ、本山表御順宣に相済み、□為御褒美同年十二月二日高二十石拝領、三ヶ寺為扶持玄米三十石被下置。禄寺に被召立、未年八月中、御朱印頂戴す。
十三世、宗荃文化二年十二月十六日遷化
十四世、義亮 宗荃の嫡男。母は義琳の嫡女なり。天保五年六月十三日遷化
文化十二年亥七月九日入院御届済み(今年前百二十八年)
寛政十二年中、本堂再興。造作皆備付け(今より百三十九年前)
十五世、義応 明治七年九月三日遷化
十六世、広琳 明治十五年二月十七日遷化
十七世、□□ 昭和四年 遷化
十八世、孝全 大正十一年十二月十七日遷化
十九世、由存 昭和五年遷化
廿世、 現代
○ 同寺伝来の宝物
一,観世音 二躯
行基僧正御作、守本尊也。
一,備前長則刀 一腰
(今より前、五百六年の作ならん)
一.琴高仙人の画
一,山田長安の筆
一,百人一首 上下二冊(桐箱入)
書、画付け、其絶妙なること、目を驚かす。
其他数多あり。(中略す)
○ 太子堂の沿革・由来 並びに大谷神社と革称、栄神社と改称したる迄
栄村大屋新町の乾に方りて、国道に沿ひ、先年より俗称太子堂と云ふ。聖徳太子の像を安置し、春秋二季祭典を執行せり。
往昔、此の神体は、正伝寺開基に当たり、回国修行の禅僧大海なるもの、笈修の守尊の一なりしものにて同寺にありしを、明応年間(今より前四百四十年)の頃、茲に故ありて大屋新町の鎮守として、源内の南方に小祠を建てて奉置し、祭主は修 験両学寺に於いて典礼挙行したりき。然るに明治初年の頃、神仏混淆の当時、聖徳太子の称号は仏に近しとして、革めて大谷神社と改称せしが、近時即ち大正二年一月十四日、其向きの許可を得て、六部落の神祠を合社して栄神社と改称するに到りたり。
因に記す。社前に幽泉怪石紫蓮の長池あり。中島ありて竜神の小祠堂あり。又た右に高壇あり。明治三十三年、其当時皇太子殿下の銀婚式奉祝の紀年碑石あり。其西北、険き山を以て環らす。老松青杉蒼々として繁茂し、東方開け、遠山悠々として大屋両部落と相対し、亦た北方小丘の処に近年創立せる招魂社ありて、梅桜桃李一時の春は元より、秋季遠望には此地に遊んで歓楽を得ると謂ふ。
○ 山舘の沿革
古城跡は大屋新町鬼嵐の東にあり。山舘と謂ふ。躋登すること五町余、南北連山 の中央に位して、背面後沢深く、其要塞一目堅固に見ゆ。山に上れば、今尚溝渠壇 壁の形跡歴然たり。山の中段に二ノ台・三ノ台と唱ふる馬場の跡あり。而し城廓の堅固なること、想像するに足れり。
後陽成帝の御宇天正十八年三月(今より前三百六十六年)、太閤秀吉公、詔賜節刀兵二十万を率て東征す。白河に至り、人をして出羽の地を検せしめ、而して蒲生氏郷を会津に封じて東北の鎮撫を掌らしむ。(之より先き、天正四年、秋田城介信忠を岐阜に移し、其後北陲に威を轟かししは伊達政宗なり)。最上義光等を始め、興亡常なき群雄、処々に割拠の輩、巣謀の時に当たり、小野寺道縄の家臣日野備中守某なるものの居城なりと云ふ。
按ずるに此時、竜蛇を放って虎豹を駆るの猛将勇卒、皆備中守に服従したりと云ふ。其遠孫、今尚本郡角間川町に住すると云ふ。此れ里人の口碑にして、事の根元詳ならざるは実に遺憾とする処なり。
山舘の古城跡は、四時の風光極めて雅致に富む。大谷八景の詩に、
山舘明月
夜食玲瓏月満楼 風光如水樹将流
休道君春宵一刻 就興古城山舘秋
○ 長谷の沿革
大屋寺内に長谷と云ふ処あり。里人の云ひ伝へに拠れば、往昔修行の僧侶あり、京都長谷寺の三十三躰の観音像一躰を背に来り、出羽国大谷の郷に来り、長谷に一寺を建立して之れを祀れりと。
其境内には千有余年を経たる雄大なる銀杏樹あり。其廻り二丈余にして、躯幹高 さ丈余の処より、かだすみの木の、枝の如く銀杏樹の朽穴より生じ、其廻り三尺有 余にして枝葉も又た茂げれり。亦た其上部、一段高き処より、桜樹廻り二尺余のもの是れ又枝の如く生じ、昔し同木の朽穴より枝の如く生じたる六種ありければ、里人は七色銀杏と称せりと。又た境内に接近せる東北隅に方り、南方に面する小丘あるが、其処々に小塚あり。明治二十年頃、開掘するに、往昔用に供せる金具発見せり。而し其先端は消滅せるを以て、其用途詳ならず(中略す)。
○ 大谷沼の由来
国道の東に方り(持田上端)、山あり。婉蜒三面を囲み、此れを長谷山と云ふ。 山隈窪地の個所に、元和元年(今年前三百二十四年)、沼を築立てて、新藤柳田外 一ケ村田地二百町歩の水源に供し、其周囲約一里余と云ふ。之れを名付けて大谷沼と称す。又其近傍に千余年を経たる銀杏樹あり。因って銀杏沼とも云ふ。
其沼、形状恰も楓の葉形に似て、角股三四あり。其水の深さ二丈余ありて、鯉・ 鮒・小魚等多く、風静なる日は波間に出没す。樹木森然として汀岸を環らし、松樹 蒼々、或は列り或は跪き、或は立ち或は仆れ、水破玲瓏の状、松風颯々面を払ふて涼あり。秋月高く中天にありて、金波銀浪汀岸を打つの景、桃源にあるの感を起こさしむ。之れを以て春好及び納涼の時季、将又中秋の観月には、貴賤老若観游の人、群集せりと云ふ。
大谷沼晩釣
堪喜揚竿魚上釣 春風波暖白鴎浮
好是江頭多楽事 乗興吟遊日夕留
○ 大屋新町の沿革
往古其名称詳ならず。元と大谷と唱えて三ヶ村を云ふ。即ち寺内・新町・新藤柳 田なり。水源の組合によりて称するものの如し。
大谷とは南北連山相対するを謂うならん。慶安年間の郡司代官某氏の云々に、湿 水の地にして大谷とは、「谷」は火の口と書きて乾燥の字義なれば、是は土地に不 適当の意味なりとて、「屋」の字に改称すべしとて、検地御帳の表紙に「大屋」と 書き染められたるに因ると謂ふならん。
大屋新町とは鬼嵐・中里・新町の三部を合わせて総称なり。亦た寺院三ヶ寺あり。 其系譜別にあり。
新町は旧家は源内・治兵衛・市兵衛・仁助等なり。就中治兵衛には系図書ありと 云ふ。六右衛門・儀右衛門・七十郎・平内・仁左衛門等の九家は現祖にして、天正 年中(今より前三百六十七年)の頃には日市場を立て、貨物輻集の地なりと云ふ。 祖先詳ならざるも、日野備中守の家臣なりしやと云ふ。
中里は治部・和泉・斉の三家なりし由。先祖は往昔源平の乱に平家の一族にして、 潰散後此地に来り、帰農せし輩なりと云ふ。
鬼嵐は沢の名なり。北には仏沢あり、東には地獄沢あり。懲悪の名を用いたるは、 寺院の多き故なりと。
此部落には彦右衛門・平右衛門の二家より起こり、先祖は陽成帝の御宇天正五年 (正しくは元慶二年)(今年より前三百六十二年)夏、出羽の俘夷叛く。右近衛将 監小野春風を以て鎮守府将軍と為す。右中弁藤原保則を以て出羽権守と為す。討て 之れを平るに当たり、随伴の臣なりと云ふ。土地膏肥なるを以て居住し、本国の江 洲に帰らずと云ふ。
享保年中の公簿を閲するに、総高五百八十余石・家数五十軒・人口二百三十人と あり。又た田畑の開発夥多にして、大なる収穫を見るなり。
慶安年中(今より二百九十二年前)、村頭大隅雅楽之助にして七ヶ村の肝煎職。 俗称舘ノ堀に居住を構へ、極めて威風に冨み、且つ仁徳ありしと里人の口伝へあり。 現今其邸宅廻し垣の旧跡を観て、想像するに余りあり。
維新前、大屋新町に於いて転変移動は殆んどなく、平穏無事に生存せりと云ふ。 (中略)
○ 名僧、阿部梵随
大屋新町字鬼嵐に該地開闢以来の獣医ありて、平右衛門と云ふ。祖先は天正年間 鎮守府将軍の小野春風に随ひ来りしものの由。
梵随は平右衛門の二男なり。齠齢(ちょうれい)の時より思い凡ならず。九歳の 春の頃、本人の希望により、本郡阿気村重福寺住職某の徒弟となり、鬢髪を剃り除 し、小僧たるに、俊才の世評頗(すこぶ)る高し。師僧は当時国主の菩提所、天徳 寺恵海順教の弟子に移し、見仏問法を修行し、永く越後に行脚雲水し、帰国するや 男鹿の自性寺に住職し、両三年後に板見内の霊仙寺に移り、累進して清涼寺の住職 と為り、進んで正洞院に永く住職し、終に天徳寺に住職たり。
詩学は晩唐の句調に倣ひ、五三堂の風を好み、書は菱湖の流を汲み、深沢菱潭等 の筆意を研究して、草・行・真より篆隷を能くし、就中扇面の書は得意にして、近 国に能書の聞へ高し。明治十六、七年頃は秋田県師範学校習字科教員となり、其名 益々馨く、年七十にして示寂す。
○ 堀江治兵衛家譜
清和源氏の末流にして、堀江義光第五代下野守義胤 大炊義定 金吾義則(其男 信景)母深草出也之 義氏(頼氏) 義純(法楽寺殿) 足利判官義昌(成義 景 光) 岩次郎義範 帯刀先生義賢 堀江堪四郎 源実芳中将之
応永元年(甲子)正月吉日 義景(花押)
右は治兵衛方に先祖よりの遺物として年久しく秘め置きたるものなり。
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