ふるさと栄会

秋田の地名(大屋地区)

鈴 木 雄 喜プロフィール

鬼嵐 / 熊の沢 / 蟹沢 / 天下森 / 牛首戸 / 持田 / 五百刈 / 猿田小屋 / 美佐古 / 羽根山 / 新町 / 三平堂・二平堂 / 仏ヶ沢 / 堀ノ内 / 若神子 / 在家・五庵田 / 越回 / 馬場 / 八王寺 / 婦気 / 堤・法竜 / 赤谷地

鬼嵐

横手市栄、西仙北町心 角舘町西長野にある。中世末期の小野寺氏権勢の頃山高四百㍍の山舘にその臣日野備中守が居城その家臣が城に通うに嵐が激しかったので暴風を憎しみて鬼嵐という地名になったという。冬は北西の卓越風の強い所だ。五十嵐をイガラシと読むと同じくオニガラシと昔の人は読んだが、今は皆オニアラシと呼ぶ。山麓は、オニユリが自生する。オニは大きいという形容に使われる。こういう大きな植物の、暴風に吹かれる景観を表したものと想像される。佐竹時代になると、そこに梅の樹木が各戸に奨励されて、藩主も観梅されたという。樹齢三百年を超す老梅が今も保存されている。仙北郡刈和野の山地にある鬼頭は、享保日記には鬼壁と記され、近くには鬼壁山もある。大きい壁のような急傾斜の地形を意味した。鬼嵐とは強いこわいあらしを意味する。

熊の沢

横手市大屋寺内、南外村外小友。クマとは①曲がった谷間でコマのことでもあり、河間や入り込んだ地形を意味し例は岩手県の好摩②コバークマは切り替え畑や焼き畑のことで古場、小場、木庭③クメークマは米、狭間、久米田、久目の地名④山のふもとから峰に続く稜線をクマ⑤動物のクマ⑥アイヌ語の横山。

横手市大屋寺内字熊沢は戸数十四軒で山麓に立地し、昔はクマでもこの里に出て家畜を襲ったと思われる所であるが、その記録がない。奥羽山脈にはクマがいるが、襲われる可能性がある地名であれば無難な地名となる。ただし前記①と②にも該当するので、漢字とすぐ結び考えることは危険であろう。

蟹沢

横手市大屋寺内熊沢、山内村三又、平鹿町吉田、稲川町三梨字蟹沢、由利町、稲川町下宿、湯沢市前郷、稲川町谷地、神岡町神宮寺獄などにカニザワは分布。カニは金(カニ)とも、曲がった形とも昔の人は言う。横手市大屋寺内の熊沢から天賀森に達する山道の蟹沢は、大正中期に冷泉のわかし湯もあった所であり、渓流の小さな渓谷を造り、かって崩壊した土砂が堆積して砂レキ層をなし、カニの生息しやすい条件を持っているので蟹沢と称したが山道が、崩壊した土砂を避けるために曲がっているから曲がりの沢か、さらに上流には、谷の両側の山脚が、相互に谷床に出て、沢が曲がっているから曲がりサワと称したかは簡単でも予断を許されまい。必ずしもカニの生息地とは限らない。

天下森

横手市大屋寺内、同市杉沢、山内村筏、同村南郷、横手市金沢中野、千畑村天狗山。大屋寺内の天下森、天賀森となっているが天狗森が正しい。天狗は想像上の怪物で川の中のカッパ山の中の天狗は全国的に分布する。山の端に天狗の地名が多いが山形県最上郡の山の中にもある場合もある。①天狗が住むと想像された山で、密林を形成していたか②天狗の鼻に似た地形をさしたか。ここの天下森(天狗森)東方山麓に向かって「一の坂」の左方の緩斜高地で地名を符した当時、①の景観であったと想像する。今は展望がよく眼下は近くの大谷から遠く横手盆地を望むことが出来る。

牛首戸

横手市大屋寺内、赤谷地、雄勝町平城字東趽沢、東鳥海山腹、中仙町大神成、田沢湖町潟村にある。牛首は鏡味氏の地名辞典によれば①山稜の意につく地名(美の牛・牛神・牛首の地名があり)②牛の象形語につく地名は(牛沼・牛山・牛ヶ沢)③牛首は牛首状の狭長な尾根を示した地形に地名となる。④アイヌ語であれば、何々がそこに群生するところの意で北海道のノッケウシ・モセウシなどとある。大屋寺内の山地にある牛首戸は土地の人は、ウサクビと称している。中世末期の小野寺義道の時世までの死罪を行ったところと言う。山舘に居城した小野寺氏の家臣、日野備中守は大屋の部落の最高権力者として刑を執行したと想像できる。当時の豪族や名主階級は運搬用の牛馬を所有したから、人骨を牛の骨と呼称させて近世の人たちは実際生活の交渉を山に求めた。今は山菜採りの適地のウサクビもその昔を知る人はない。③が該当する地名の起因と思う。

持田

①横手市新藤柳田②山内村土淵③羽後町西馬音内④千畑町千屋にある。持田はモチ米の田があったからと簡単に解釈されやすい。モチは①鏡モチ型の土地②小さい盆地や谷③傾斜地④平坦地の地形に使用された。横手市新藤柳田字持田は、横手市の南四キロの羽州街道沿いに成立した路村で、「享保郡邑記」に「家数四〇戸、先年餅田村名を唱うべき也」とある。礼塚は宝永七年に移り、新藤はそのころも七軒であった。徳川初期の羽州街道開通以前の景観は、和談森と二平堂、三平堂、御本陣坂との丘と越塚山に囲まれ、外ノ目坂と境して盆地状の地形であった。ここに大屋沼からの堰を通せば開田可能、持田農民が中心に大屋沼の堤防を造築したのが徳川中期だ。開拓当時の地理的風景は②に該当した地形であるので、モチタの地名になったと考える。

五百刈

横手市外ノ目、下境、雄勝町宇留院内、寺沢、仙南村境田、山内村大松川、西仙北町強首に、五百刈、千刈田、九升田の地名がある。土地がどれだけの広さか、または生産高を示すの意味ではなく、一軒に付き五百刈りずつの分配をした区域を言う。

徳川時代は米一俵は三斗入りで今より少ない。乾田以前の湿田は苦労多く、よく初雪のころも稲刈りをした話がある。分けつも少なく一刈りも小さいものだったろう。今の五反百姓で千刈りほどであるから当時の五百刈はとても自給不能である。山内村の三升田、強首の九升田などは「モミ」を蒔くだけの面積を示す。何々刈田は一軒の分配区域が地名となり、何々升田は耕作面積を示す地名だ。

猿田小屋

横手市外ノ目、横手市新藤柳田、大森町にある。サタゴヤと通称している。丘に囲まれた地形で、開田初期の地盤の不安定な時にね底に水が浸透し、いつもかけ流しの必要があったろう。水引の良い田をザル田と呼ぶので、「猿田」と仮字になった。

十文字町新関の田の小字名の乾揚りは、水引の早い田でザル田と同様である。大森町の四キロ北部の山間台地にある猿田村は、昔、サルが開いた田があったので名付けたという。 小屋の地名は市の近郊に多く①草葺きの小家で用水の番にしたか②開拓するときの飯場小屋か③新田開発頃、士族階級に対する農民の謙虚な気持から、福小屋、大倉小屋、勘太郎小屋、吉田小屋などと名付けられて、四十八ヶ所の地名が市の近郊にある。この猿田小屋は自宅からの距離があるので、草葺きの掘っ建て小屋を建て、水引の番に利用したと思う。

美佐古

横手市栄美佐古。羽州街道開通以前は、新町−赤坂間はここを通っていた。羽州街道開通後は十字路となり、一里塚もあった。十文字であるので、よく交通事故があつた。ミサゴは①見境う、見て区別する、見分けるの意か②土地の人は濁音が普通で、「ミサゴ」はミサゴというワシタカ科の鳥を見て付けたのか。トビに似ていて頭は白色、海辺に住み、急降下をして魚類を捕らえる。トビを見てミサゴと間違ったかは不明である。③伝説に堀江の娘、みさ子という妊婦が大名行列の際、地面にぬかずきかたが悪いといって通りがかりの大名の家来に首をはねられた。住民はみさ子に同情し、地蔵を建ててこの死を弔った。その側に清水の湧出がある。②と③が地名の語意と思うが、珍しい地名である。

羽根山

角舘町北方郊外の(羽根台)には刎(は)ね台地と関係あるかのように現在も神おろしのの神子が死者のあの世の生活状態を降ろし告げて職とする家がある。他説としてハネはハニの転語で、粘土か赤土をさし、粘土の場合は埴(はに)、埴生、羽田飛行場、羽根山となり、後者の赤土をさす場合赤羽のような地名となる。

横手市東郊の羽根山は、松林が多く、地味やせ地で、重粘土の土質である。掘ればクワも容易でない掘りにくさで、赤色の重粘土が出ているところを見れば、粘土と赤土と兼ねたいわゆるハネの語源に一致した地名でもある。

新町

村の中に、新町などと町がある例が多い。町にはマチ(市)という意味があった。横手市大屋新町は「享保郡邑記」には「民家が二十九軒、小野寺時代に市場あり」とあり、お諏訪神社の森の下あたりは「十日市」の字地(あざち)があって、中世末期の市場の地らしい。今は田畑の小字名にも、全く消滅した地名となった。当時の市場は物々交換のためで、金銭で売買することをせず、手製のコダシとミノとを交換などしたのだろう。越前屋、若狭屋など言われる旧家も、今は三浦、高橋の姓に改まって、知る人が少ない。

路村を形成しているように見えるが、各農家は千坪ほどの屋敷に、南面した「曲がり屋」を建て、道路からさらに自宅用小路を辿って厩から土間に入って母屋の玄関にはいる。路村でないから、南面する厩の前方の家を「前の家」後は「後ろの家」と言い、この新町地区では隣の家が前か後ろの家であり、前の家を隣の家と呼ぶ。

三平堂・二平堂

横手市の南郊四キロ、国道西側に栄神社がある。周囲の微小分離丘を俗称で三平堂・二平堂と呼ぶ。約三㍍と五㍍の階段状の山体で、頂上を平らにして、お堂を建て、大屋新町では悪病、魔よけの祭壇とする。三平堂、二平堂を昔の人名に結びつけて「三平という人、二平という人」の住んでいた場所と考えられているが、飲料水がなかったことを第一の理由に、人の居住地でなかったろう。仙北の「乙越」と同じ地形のお多福状の原地地をなし、大屋から新藤に通ずる踏分の小路を有する峠であった。中世に「おたふく」を「三平二満」と書き低い方の岡も平らであるから近世に「三平、二平」と俗称する地名と考える。「おたふく」の「おた」は「乙御前」から「おとごぜ」と転じ、「乙越」と変化する。国道開通以前、栄神社建立以前の三平堂、二平堂は「おたふく状」の峠であったことから地名となった。

仏ヶ沢

雄勝郡の石塚、川向、三関、横手市栄、中里にある。横手市の仏ヶ沢は、土地の人はお寺と関係あるとか、仏像があったからと、字源から解釈する。もし仏語の梵志(ぼんし)からきたことばだとすれば、梵志は虚無僧がお寺からもらっていた屋敷のことだろうが、各家を修行ごいしていた身分だから、お寺からそんなに一つの沢をもらうわけはない。仏ヶ沢はカブトギクをブシというので、この植物の景観からの語源であろう。トリカブトともいう有毒草本で、毒キノコもブシキノコと言う。葉は掌状に三裂し、裂片はさらに分裂し、秋は美しい紫色の花を開く、塊根は猛毒なので昔はツボでこれを裂して動物も取ったが鎮痛薬にもした。ブシの野生地が仏ヶ沢の地名となったと思われる。ブシとは谷頭ほどの小平地を、地形学では用いている。

堀ノ内

横手市大屋寺内にある。中世末期の豪族堀江氏の居住地。掘りをめぐらした環状集落の形成は発見されない。掘りというと直ちに城砦を想像するが、堀ノ内は必ずしも常に戦術上のものではなかった。中世の武家は通例トリデの中には住まないで、戦時の防御地はけわしい山の上にあって平時は平地に今の大地主のように住んでいた。

堀ノ内はその屋敷を取り囲んだ工作物で、往々、その内にも田も畑もあったのである。小野寺時代のころ、その臣日野備中守が山舘に居城していたのでなく、平時は堀ノ内に居住して堀江氏を従え、大屋の里に君臨したと思われる。堀ノ内は垣内と同じ様な開墾者が、特権を留保する土地の区画を示すものもある。また寺の境内も堀ノ内と呼ぶ。奈良盆地の垣内集落が堀ノ内の典型的なものである。秋田には前記のような堀ノ内もあるので、必ずしも掘りがなくてもよい。

若神子

横手市大屋寺内、雄勝郡三梨、宮田、雄勝郡羽後町西馬音内、仙北郡角館町にあって、ワカミコという。山地に多い。横手市大屋寺内から三.五キロも山地に入った緩斜の洪積台地にある若神子は、①鬼嵐部落にあった法印が、「神子」(みこ)に土地を与えた地名であるとすれば、法印の勢力が大きいはずであるが、神社の権力も低く、社領もなかった。②キツネの出没地で、夜になればキツネの光が見られ、昼には子キツネの通るのも見られる山地であった。キツネは神聖視もされていたのであり、特に子キツネを、神の使者として神子として信仰していた。こういう子キツネの出没地を、昔人はワカミコの地名を付したのではなかろうか。

在家・五庵田

横手市水川町、大曲市四ツ屋と中仙町の中間、雄物川町里見に在家があり横手市外ノ目と金沢寺田に五庵田がある。横手市の水上町から裏の北上線を望んだ、田んぼの上在家は、西南日本の中世の開墾地の在家の地名と同じだが、秋田県のは中世とは限らず近世も在家を用いたようだ。在家とは①社寺の荘園内にあって供物を納めていた名主級の家②在郷の家・田舎屋という意である。 横手の在家という田んぼになっている地名は、田んぼの所有者がいくたびか変更しているので、不明確であるが、小屋のような数戸が分家していたと思う。田屋という集落が里見や十文字にあるが、在家と同様に、分家した「出屋敷」と考えてよい。外ノ目にある五庵田も五羽田と書いているが①草葺きの小屋 ②隠とん者か僧の閑居する小屋か③住宅の号か文人の雅号。横手市前郷字元判場という小字は御判田で、城主の押し判のあった田であったか、五庵田であるかのいずれかだろう。

越回

横手市安田、同杉目、同塚掘、仙北郡横堀、雄勝町などにコシマワリ、ツカゴシ、コシマキがある。横手市安田の小分離丘には、部落の鎮守の神社がある。この付近を越回という。越は本来は峠を表す。峠は地形学では鞍部をさす。この分離丘は展望のきく所。峠の意味に越を使用し、その回り一帯を越回という。マキは巻の字を用いたり蒔きも見られる。まわりを取り巻くことだ。腰巻きは女性着用の腰巻きでなく、腰はふもとやガケを表す。この分離丘の腰部をとりまく一帯も腰巻きといえる。越回つまり腰巻きのことだ。安田は①ヤは沼地・スは州で、沼地②雑木林と解ける。安田と同義の地名に安川・野州・夜須・保田・安井など全国に分布。開拓当時の安田は右の①②のどちらも混ざった景観であったろう。

馬場

横手市安田、雄勝町院内、千畑村千屋、六郷町、東成瀬村、協和村下淀川などに、馬場の地名が多い。意味は①ガケ②馬の調練所③広場④山上の平坦地の意。馬の調練所が必ず馬場とは限らない。川原の広場であるために、馬の調練所にしてもよいという意味もある。横手市の馬場崎は城下町時代から馬の調練所であった。同市の安田にある馬場は広場の意味らしい。近くに館ッ平があつて馬の調練所と関係があるらしい。川原にある馬場の地名は馬を洗ったり運動するための広場から馬場となりやすいが、砂原の土質にこの名前がつき、近世までの武士とは無関係である。

八王寺

横手市安田字八王寺。東京都の八王子と似た八王寺でそのうえお寺と関係がありそうだ。上りの汽車で横手駅を発して約5分、右方に渓流の見える岩場の低い分離丘がその八王寺の名の根源という。ここは大屋から流れ来る水流が自然のままに集中してくる所でいまだに稲作もよくない。そして森林の茂っていたころは陰地であったろう。オウジはオンヂの転語で、陰地、日陰か湿地を意味する。このような凹地や邑地から王寺の字が当てられたのか。

横手市に市営住宅が5ヶ所もあるが、ここ八王寺の市営住宅が一番発展したのは交通便利に原因する。最近は工業誘致の日貿会社も建築され、通勤者がラッシュ時に雑踏し、自動車学校とあいまって、都市近郊の表式的な住宅化が進み丘の上にも住宅が建てられている。

婦気

横手市栄字婦気、仙北村高梨富慶、大曲市橋本字婦気、仙北村払田字婦気、雄物川町南形字大布気谷地、大曲市福田字大ふけ谷地。フケは湫田や低湿地の意。北奥羽や東瀬戸に多い。富家、福家、布下、布毛、更沢、吹井とも書く。原地形は排水の不十分な沼沢地であったが、人口圧によって開墾すれば田になる可能性のある湿地を深田(ふけた)といった。横手市栄の婦気も低湿地で、洪水となれば大屋の里から婦気に向かって流れる位置に当たる。昔は沼沢らしく一段と低地になったところもある。中部地方ではフケの地形をクテと呼び、湫の字を当てている。腰までぬかって、田植えするフケ田を深田とも言うが、秋田市手形にある。新潟県では昔の潟湖のほとりにある田に見られる。

堤・法竜

横手市栄、山内村、西仙北町今泉に堤がある。開墾の順序は山麓、山間盆地から平地を開墾してきたが、谷や小野に次いで近世農民は堤を築いて溜池を造り、平地に着目した。横手市南郊の堤は佐竹義宣の代に八口兵助という人が、今の三枚橋の八ノ口に住んでいたが、墨の黒という名馬を献上、続いて山内を開墾し、その功を認められて現在地を開墾したという。田窪沼、大沼、小沼の3つがあり、タメ池を堤という。山内の各地にある雨池も堤を指す。法竜という地名は竜神信仰からきたもので、田んぼには水が必要であるから、竜神は雨族と水族とを司る神で雨乞いをして竜神様にも祈った。堤→法竜→タメ池→雨池である。法竜は横手市大屋新町、十文字町にある。

赤谷地

横手市栄に赤谷地がある。湿地は徳川初期時代は農地としても不適地が多かったが、人口圧により次第に開墾の対象になった。湿地の代表名は、谷地である。関東ではヤ、ヤツと呼び、東北ではヤチ、東九州と関東ではニタ・ヌタ・ムタ、愛知県ではクテなどと呼ぶ。低地を意味する語に、フケ・フゴ・クゴ・アワラ・ドブ・クボなどあり、久保の目はクボ地を意味するが、必ずしも湿地とは限らない。谷地は横手盆地のような沖積平野には多くあり、東北地方には同意語として谷内、八知、八道(ヤジ)家地、矢地、矢次、矢治、野地、屋治、養地となつている。横手市から南三キロの赤谷地も沼沢地の谷地に、大屋の里からの流水により湿地となっている。山層を掘れば赤い鉄分を含んだ土が出るので赤谷地と言ったのではなく、鉄分を含んだ赤褐色の渋水が多く、垢水が油ずんでいるので、垢谷地とするのが正しい。赤坂も同様の語源を持つ地名である。


↑タイトルの画像は?
掲示板に投稿された「議事堂周辺の大屋梅」、投稿記事【22】、の写真を元に加工されたものです。

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